(その四)粘り強くいきましょう
何やら物言いたげにしていた佐久間が口を開いたのは、二階の渡り廊下に差し掛かった頃だった。静かな特別棟とは打って変わった喧騒が近づいてくる。
「先日は失礼しました」
何が、と訊ねかけて涼は口を閉ざした。先日とは金曜日のことだろうか。
よりにもよって一日の終わりに告白されるとは思わなかった。オペラの最中は大人しかったので油断しきっていた。その前に、だ。よもや改札口前で告白されるなんて誰が予想しえよう。
(変なところで抜けてるよな、あいつ)
文武両道の優等生のくせに。
「リョウ先生?」
怪訝そうな顔で覗き込む佐久間に、涼の意識は現実に戻された。
「あ……何でしたっけ?」
「先日の件です。不快な思いをさせてしまったようで、本当にすみませんでした」
そこまで言われてようやく涼は思い出した。ああ、オペラに行く前にひと悶着あったっけ。誤解した天下が拗ねて帰った一件。大人ぶっていても結局子供なのだ。
「お気になさらないでください。私も少々大人げなかったです」
その子供に振り回される自分って一体何だろう。
「それにしても意外です」
職員室が見えてきたところで佐久間が呟いた。
「鬼島と何かあったんですか。前にもお気になさってましたよね」
涼はひきつった笑みを浮かべて誤魔化した。元はと言えば、佐久間と遙香の逢引現場を天下に目撃されたことが原因だ。そうでなければ、もっと強気の態度に出られるというのに。
「まあいろいろありまして。なんとか仲良くといいますか、それなりの関係を築けたわけでして」
向こうはさらに関係を進めたいようですけどね。後半は呑み込んでおく。応じられるはずがなかった。相手は六歳も年下の生徒で、自分は教師だ。天下はそれでも構わないと言っていたが、戯言にしか聞こえなかった。彼は世の中というものをまだ知らないのだ。
世間は冷酷なのではない。ただ、無情なのだ。どれだけ当人が本気だろうと、どれだけ心を砕いても、世間の目にそんなものは映らない。重要なのは生徒と教師が恋愛してはならないという公然の決まりだ。
ふと、涼は我に返った。
何故自分はさっきから鬼島天下のことばかり考えているのだろう。
「……鬼島とは親しいんですか?」
交際申し込まれました。断りました。でも諦めないそうです。
「いいえ、それほどでも。顔を合わせたら雑談をする程度です」
「珍しいですよ。彼は愛想がないわけではありませんが、これと言って親しい教師もいませんし。なんと言いましょうか……どうも一線ひいている節がありまして」
やはり佐久間も教師だった。天下の似非優等生に気付くまでには至っていないが、かすかな違和感は抱いているらしい。
「できればリョウ先生のお力を拝借したいのですが」
遠慮がちだったが断れる雰囲気ではなかった。逆に怪しまれる。
「そんなに親しいわけでもありませんよ」
念を押したがどこまで聞いているのか。佐久間は頷きつつも結局は「お願いします」と頭を下げた。