(その二)だからめげてはいけません
――とかなんとか思っていた自分の甘さを、涼がこれ以上ないくらい後悔したのは、月曜の朝になってからだった。
観賞室を貸し切りにして、本日の授業内容の最終確認。軽くピアノの練習。発声訓練も忘れない。何度やっても授業は緊張する。何が起こるのかもわからない。万全の準備を持って取り組まなければならなかった。
本日のメニューを一通り終えたところで職員会議の時間が迫ってきた。涼はスタンウェイを拭いて鍵をしっかりかけた。緩みかけていたネクタイを締め直して、鑑賞室の扉を開けて――即座に閉めようとした扉の隙間に片手片足が割り込んだ。
「お早うございます、涼先生」
至極真面目な顔で挨拶されても凄んでいるようにしか見えなかった。この状況だと、特に。涼は引きつった笑顔を浮かべた。
「音楽は二限目じゃなかったか? 気が早いぞ」
仏頂面の鬼島天下は切れ長の目をさらに細めた。
「あんたに用がある」
「私にはない」
「俺にはあるんだよ」
「しかし私にはない」
ドアノブを引っ張るがびくともしない。男子高校生の力、恐るべし。体勢はこちらの方が有利のはずなのに、戦局は拮抗状態だった。
「チケット代なら給料日まで待ってくれ」
「ンなケチくせえことじゃねえ」
三万(推定)のチケットは十分高価だと思うが。
「……いろいろ考えた」
何をとは訊くまでもなかった。一昨日の告白がどれほど常軌を逸していたのかをようやく理解したらしい。
「あんたは教師で俺は生徒だ。世間一般では教師と生徒の恋愛はご法度。好きだから、じゃ周りは納得しない」
よしよし。涼はドアノブを持つ手をゆるめた。さすがは優等生。ちゃんと冷静に考え、反省している。どこぞのバカップルの二の舞にはならずに済みそうだ。
「歳の差だってあるしな」
「うん。こればかりはどうしようもない」
「好きだから仕方ねーだろ、なんて無責任なことは言えねえ。立場なんて関係ねえ、とも言えねえな。どうあがいても俺は十七の高校生だし、あんたは二十過ぎの教師だ。それ以外にはなれねえ」
「正確には二十三だがな。まあ、わかればいいんだ。わかれば」
「六年差か」
噛みしめるように天下は呟いた。眉間にしわが寄っている。
「面倒だな」
その通り。涼は大きく頷いた。情熱だけで突っ走るには問題が多過ぎる。
「先生、悪ィ」
「気にすることはない。思春期にありがちな一時的感情だ」
「やっぱりあんたのことが好きだ」
「そうかそうか。それは良かっ――」
言いかけて涼は言葉を止めた。非常に不適切な発言が耳を通り過ぎたような気がした。