(その十一)名前は大切です
「先生」
引きずられる天下の呼びかけは黙殺して駅まで直行。
「おい、先生」
券売機には数人の列ができていた。仕方なく足を止めて、天下の袖を離す。
「……すず」
「呼び捨てにするな」
「どうして言わないんですか?」
必要性を感じなかったからだ。こだわるほど気に入っている名前でもない。自分を捨てた母が付けた名だ。感慨すら覚えなかった。憎むには、母の記憶が少な過ぎた。
「深い意味はない。気づいたら定着していた」
「定着する前に訂正しませんか、普通」
涼は新宿までの切符を購入した。二人分買ったのは、行きの借りを返すためだ。遅刻の侘びと称されてもたとえ数百円であろうとも、年下の、それも生徒に奢られるわけにはいかなかった。
「君が訂正するのは勝手だけど、今更っていうのもある」
「言いませんよ」
やけにハッキリと天下は断言し、冷笑にも似た笑みを浮かべた。
「俺と先生だけの秘密ですね」
にやり。あえて擬音語を付けるなら、それだ。悪戯が成功した子供のような笑顔だ。月曜の職員会議で本名を明かすべきではないかと涼は本気で考えた。
「よし。どんどんクラスで広めてくれ」
「言いませんから、安心してください」
だから安心できないんだ。二人だけの秘密ってなんだ。たかが名前とはいえ、露骨に怪しいだろうが。
「学校で知ってるのは俺だけですよね?」
期待に満ちた眼差しで訊ねる天下に、答えることはできなかった。よくよく考えてみればそうだったのだ。大学時代の友人は皆知っているが、職場では皆無――だったのだ。今までは。
「どうだろう」
「聞いたことがありません」
「私の知ったことじゃない」
「重要な事です」
「どこが? たかが名前だ」
天下は俯き、口を引き締めた。逡巡の色が見え隠れする様に、涼はえも知れない危機感が増していくのを察知した。これはマズい。とにかくマズい。
「帰るぞ」
切符を天下の手に押し付けた。その際、当然ながら指が彼の手に触れる。天下は弾かれたように顔を上げた。
「先生」
切符を持った手が握られる。力加減を知らないのか痛いくらいだ。
「なんだ。どうした」
「好きです」