(その十)人の名前を間違えてはいけません
主要な部分を逃したとはいえ、生のオペラは格別だった。閉ざされた空間を一瞬で支配下におさめる大音声。天井までも震わせる合唱。隣に天下がいることすら忘れて、涼は聴き入った。
カーテンコールには万雷の拍手。周囲の熱気に天下が気圧されているのに、涼の頬は緩んだ。オペラは初めてだったようだ。他の客が席を立ってもなお、放心したように天下は虚空を眺めていた。圧巻。そういえば初めての生オペラ鑑賞の時は、なかなか席を立つことができなかったな、と涼は大学生時代の自身を思い出した。
「……なんか、すげえ」
天下が零す。本場イタリアのオペラを見せたらこの青年はどれだけ驚くだろう。今後そんな機会に恵まれたとしても、彼の隣に座るのは自分ではないことに涼は少しだけ残念に思った。しかし、生徒を見送るのは教師の義務だ。
「ほら、帰るぞ」
天下の肩を叩いた時だった。
「スズ?」
振り向けば、女性が小首をかしげてこちらを見ていた。大きいがややつり気味の目は勝気な印象を与える。身にまとうグレーのスーツは小柄な彼女にぴったりだった。
「珍しいじゃない。あんたがオペラに来るなんて」
「君はオペラに来過ぎだ。少しは譲れ」
ひがんでしまうのも仕方がない。同じ音大の声楽科だったが、榊琴音は資産家の娘。渡辺涼は奨学生。『カルメン』の一件がなければ、おそらく関わることなど一生なかっただろう。
「あんたが私に主役を譲ってくれたみたいに?」
意地悪く訊ね返してくる。やはり琴音も同じことを思い出していたらしい。
「その口の軽い教授は元気?」
「海外に出張中。今年もビゼーやるんですって。すずもエキストラで参加したら?」
半年振りということもあって大学のことに話を咲かせる。院に進んだ琴音は大学生の雰囲気がそのまま残っていた。そのせいか、懐かしさがこみあげてくる。
「一人?」
「いや、今日は――」
涼は言葉を濁した。除けものにされていた天下はパンフレットを読んでいた。視線に気づいて目礼。
「へえ……意外」
「何が?」
「すずって年上趣味だと思ってた」
涼は顔を強張らせた。教師と生徒には見えないのか。歳が離れすぎているだろうが。誤解を放置しておくわけにはいかなかった。が、涼が口を開く前に天下が訊ねた。
「スズ?」
まずい。涼は誤魔化そうとしたが遅かった。琴音が悪びれもなくこちらを指差した。
「渡辺涼。よく『リョウ』って読み間違えられるけど――あら? 知らなかった?」
天下は頷いた。
「知りませんでした」
横目で涼を見やる。その視線は如実に「何で今まで教えなかったんだよ」と責めていた。
言えるわけがない。新任時に「これからよろしくお願いしますね、リョウ先生」と教職員を代表した校長に笑顔で握手を求められて「すみません。リョウじゃなくてスズです」なんて。歓迎ムードをぶち壊すような真似を。
「お付き合いしてるんじゃないの?」
「してない。するつもりもない」
キッパリ言って話を終わらせた。天下の前だからこそ手加減はできなかった。
「今日はもう遅いから。またメールする」
「う、うん」
思い出したように琴音は付け足した。
「たまにはうちにも遊びに来てね」
涼は頷き、天下を引き連れて会場を後にした。これ以上深く関わらせるのは危険だ。何がどう危ないのかは涼にもわからなかったが、脳内に鳴り響く警告音は無視できなかった。