(その九)脱線は教師の特権です
そもそも、矢沢遙香と鬼島天下を比べること自体、間違っている。
「誰も可愛くないとは言っていない。よくわからない生徒だとは言ったけど」
「俺は先生がよくわかりません」
「わかりたいとも思わない、って言ったのは君だ。わからないままでいい。私もその方が気が楽だ」
「それは……あんたが、」
言いかけて天下は口を噤んだ。
「気にならないんですか?」
何が、と訊ね返す必要はなかった。学校に提出した住所とは違う場所に住む天下。それも、家族と離れて一人暮らし。三者面談には父親が出席し、母親はそのことを知らない模様。これで疑いを持たない人間は聖職者になるべきだ。
「家庭の事情に首を突っ込むほど面倒見はよくないよ、私は」
「でも、あんたは俺を探し回った。佐久間とのデートを断って。オペラだって、一人で行っても良かったはずだ。俺を探す必要なんてなかった。あんたにとって俺は、理解に苦しむ出来の悪い生徒で、面倒なガキなんだろ? なんで電話なんかしてくるんだよ」
「可愛い教え子だから」
天下は狐につままれたような顔になり、次に頬を紅潮させた。
「生徒をからかって楽しいか? 冗談もたいがいにしろ」
「何度も言わせるな。授業でも言わない冗談をどうして今言うんだ」
普通科が誇る優等生は思いの外間が抜けているようだ。涼は腕時計を見た。休憩まで悲しくなるくらい時間があった。
「特別授業をしてやる。ビゼー、ベルリオーズ、サン=サーンス。音楽家であること以外でこの三人の共通点を述べよ」
「はぐらかすなよ」
「音楽科の生徒だと十個ぐらい挙げるよ」
観念したように天下は顔をしかめながらも考えた。
「フランス人」
「正解。三人の中でもシャルル=カミーユ=サン=サーンスは音楽家として活躍しただけでなく、数学や天文学、詩や絵画の分野においても才能を発揮させた。もちろん、本人の努力があってこそ、できたことだろうがね。彼の作風は知的で穏健的。よく頭で考えて練った感じの曲が多い。仮に、彼がうちの高校に入学したとすれば、どの学科に入ってもまず間違いなくオール五の最優秀生徒だ。特例で授業料免除にもなるかもしれない」
サン=サーンスには及ばないものの、鬼島天下もまたオール五の最優秀生徒だ。欠点の見当たらない完璧な生徒。
「そんなサン=サーンスが、だ。交響曲第三番を完成した時にテンションが最高潮になって『我が楽曲には一点の過ちなし』と高らかに宣言したそうだ。すかさずベルリオーズが突っ込んだ」
涼は茶を一口飲んだ。
「『確かに。しかし一点の過ちもないことが、君の作品の唯一の弱点だ』」
一点の曇りもない。完璧。完全。ゆえに欠点となる。鬼島天下がまさにそれだった。歩み寄る隙がないのだ。美しい絵画を見て感動を覚えても、親しみを覚えないとの一緒だ。
「だから、君が机の上に腰かけた時、正直安心した。こうやって悪いこともできる普通の生徒なんだって。ほんの少し可愛く思えたよ」
天下は複雑な表情になった。年頃の男子学生は『可愛い』と言われると非常に戸惑うようだ。確かに、嬉しくはないかもしれない。しかしそれ以外に表現のしようがなかった。
しばらく無言で茶を飲んだりしていたら、劇場の扉が開いた。ようやく一部が終わったらしい。休憩時間にブッフェは混雑する。涼は空き缶をゴミ箱に捨てた。
席の確認をしなくてはならない。いつまでも寄り掛かったままの天下を促す。緩慢な動作で彼はコーヒーを飲み干し、壁から背を離した。
「俺は、先生に可愛いなんて思われたくはありません」
どんなに小さくても天下の声は耳に通る。喧噪の中であってもだ。涼は聞こえないふりをして席を探した。




