(その八)お酒は二十歳になってから飲みましょう
駅のホームで天下を見つけ、涼は目を瞬いた。彼は制服ではなく私服姿だった。灰色のカットソーに青系のジーンズ。それに薄手のミリタリージャケットを羽織っただけのカジュアルファッションだが、それもまた実に様になっていた。新鮮さもあって、つま先から頭までつい凝視してしまった。
「招待券、見なかったのかよ」
拗ねるように天下はポケットに手を突っ込んだ。
「譲渡禁止なんて書いてねえ」
知ってるよ、それくらい。
プレミアつきのライブチケットじゃあるまいし、席が空くことの方が問題とされるオペラでは入場の際にいちいち本人確認なんてしていない。涼は無理に天下と行く必要なんかなかった。逆を言えば、天下もまた無理に涼と行く必要もなかったのだ。
「ああ、本当だ」
涼は封筒からチケットを取り出した。
「そういうことは早く言ってくれ。捜し回って損した」
苦笑すれば天下はつられたように顔をほころばせた。
「先生って、嘘吐きですね」
騙されたくもなる。
涼は内心、誰に対してでもなく言い訳をした。だってそうだろう? 偶然手に入れた物とはいえ、涼がオペラを、中でも特に『カルメン』が好きであることを知って、誘ってきたのだ。嘘を吐いてまで。
今朝、服選びに迷った涼と同じように心待ちにしていた天下が、あの現場を目撃し一人落胆して帰ったことを思うと――流されてやりたくなるじゃないか。
昔から、涼はそういうものに弱かった。
当然ながら劇場に到着したのは七時半。開演時間はとっくに過ぎていた。おまけに途中入室は認められていない。第一部と第二部の間にある休憩まで外で待つ羽目になった。ちなみにかの有名なアリア、『ハバネラ』が歌われるのは第一幕。『セギディーリャ』も同じく。『トレアドール』は二幕。一部で有名どころはほとんど歌われてしまうのだ。涼は涙を飲んで諦めた。
「悪かったな」
天下が小さく呟いた。伏目姿には哀愁が漂う。涼でなければ、気にするなと水に流すところだろう。しかし、残念ながら涼にはそんな真似はできなかった。
「まったくだ」
何しろ生まれて初めてのカルメンだ。逃したアリアは大き過ぎた。ますます気落ちした天下は恨めしげに反論した。
「やっぱり、佐久間と行けば良かったじゃねえか」
それで拗ねて帰ったのはどこのどいつだ。涼は頭を掻き毟りそうになった手で、天下の腕を掴んだ。軽食やワイン等を販売するブッフェを通り過ぎて自販機へ。
「気分を味わえ。オペラの幕間に飲むワインは格別だ」
イタリアのオペラ座には必ずと言っていいほどワインを飲むための場所が用意されている。オペラが社交場とされていた時代の名残でもあるが、今も昔もオペラとワインは密接な関係にある。オペラ歌手の美声に酔い、そしてワインに酔う。何百年経っても人間と言うものは大して変わらないのだ。
「飲まないんですか?」
「未成年は茶で十分だ」
五百円玉を投入し、生茶を選んだ。天下にも買うよう促す。ほんの少し逡巡した後に、天下は「御馳走になります」と折り目正しく礼を言って、コーヒーを選んだ。生意気にもブラックだ。
中では『カルメン』。外のブッフェで教え子と二人、茶を飲んでいる。ずいぶんとおかしなことになったものだ。
「……デートはどうしたんですか?」
躊躇いがちに天下が訊ねる。
「断わったよ。今頃、二人で仲良くやっているだろうな」
「可愛くない生徒のためにわざわざ断るなんて、先生はご立派ですね」
皮肉混じりの言葉。三者面談の日のことをまだ引きずっているらしい。意外に根に持つタイプのようだ。