(その七)機転を利かせて対応しましょう
昇降口まで早歩き。廊下を走れない教師の身分が恨めしかった。ようやく辿り着いた下駄箱で確認したら、天下の靴は既になかった。舌打ちして、教員用の玄関にまわり、今度は駐輪場へ。
二年一組の所で談笑していた男子生徒数名を呼びとめた。天下の行方を訊ねれば彼らは一様に不思議そうな顔をした。
「あいつ、チャリ乗ってませんよ」
「歩いて学校まで来てるってこと?」
「いや、そうじゃなくて」
顔を見合わせる男子生徒達。
「電車通学だよな? 俺、雨の日に見たもん」
今度は涼が眉を顰める番だった。佐久間から引き出した天下の住所、そして先日目撃した鬼島宅は間違いなく一致していた。学校までは徒歩で十五分程度の距離。駅まで行けば遠回りだ。
つい最近、引っ越しでもしたのだろうか。しかし彼らが言うには入学当初から電車通学をしていたらしい。ますますわけがわからない。
「天下がどうかしたんスか?」
「忘れ物をしたんだ。結構大事なものだから、渡そうと思って」
涼は肩を竦めた。
「あ、俺、あいつの番号知ってます」
思わぬ収穫だ。男子生徒達に礼を言って涼は学校を後にした。道すがら教えてもらった番号にかけてみる。が、留守番電話が応対。こうなれば直接乗り込むしかない。涼が知っている方の鬼島宅へ向かった。
到着した頃には六時を回っていた。改めて表札を確認したが、やはり『鬼島』とある。そうそうある苗字でもないし、涼は天下の父がこの家に入るのを確かに見た。
玄関の前でもう一度電話をかける。願いは通じたのか、硬い声が『はい』と応じた。
「今どこにいる」
『は? せ、先生、なんで』
「クラスメイトに聞いた。どこにいるんだ?」
『どこって……』
声には困惑の色が濃かった。
『自宅ですよ』
涼は目の前にそびえ立つ家を見上げた。二階の明かりは点いていなかった。ポストには今日の夕刊が入っている。
『ですから、俺を気にせず、お二人でどうぞ』
あ、やっぱり見てたのね。タイミングの悪い奴だ。
「違う。ガキのくせに変な気を回すな」
『どうだかな』
天下の口調ががらりと変わった。
『よくよく考えてみりゃあ、めんどくさがりやのあんたが好きでもねえ野郎のために彼女のふりをするってのも、おかしな話だ』
嘲笑混じりの声はとことん意地が悪い。涼は言葉を失った。
『良かったじゃねーか、ふりとはいえ、彼女にしてもらえてよ』
思考が回復すると共に、何かがふつふつと湧き上がってきた。
良かった? 誰が?
昨日から指折り数えていたオペラの邪魔をされ、職場の雰囲気をぶち壊され、挙句勝手に誤解して拗ねた生徒を探し回って自宅にまで押し掛ける羽目になっている。
これの、どこが、良かった?
「おい」
怒りを押し殺し――たつもりだったが、低い声が口から出た。
「私が今、どこにいると思う?」
『知るかよ。切るぞ』
「お前の家の前だ」
電話口の向こうで、天下が息を呑んだのが聞こえた。
「もちろん、お前が今いる『自宅』じゃあないだろうが。表札には『鬼島』って書いてあるな」
『……おい、冗談だろ?』
「授業でも言わないのに、今言うと思うか? 出来の悪い生徒にもわかるように懇切丁寧に教えてやりたいところだが、あいにく時間がない。インターホン押して証明してやる。誰か在宅しているみたいだし丁度いい。ついでにどういう事情なのかも聞いておこう」
『馬鹿やめろっ!』
怒声というよりは、悲鳴に近かった。尋常でない様子に、インターホンに乗せた涼の指が止まった。こんなにも切羽詰まった天下の声を聞くのは初めてだ。
「電話越しとはいえ教師を馬鹿呼ばわりするとはいい度胸だ」
『悪い。謝る。だからやめてくれ』
珍しく殊勝だ。弱々しい声に責める気も失せていく。
『頼む』
反比例して好奇心だけが膨れ上がる。何を隠している。そこまでして何を守ろうとしている。しかし、追究するには時間も場所も最悪だ。
「新宿駅でいいか? そこで待ってる」
しばし黙してから、天下は『一時間くらいかかるかもしんねえ』と了承した。