(その六)予期せぬ事態に陥ることもあります
迷うことなどなかった。
「すみません。今日は先約が」
「私が代わりに行きましょうか? カ・ル・メ・ン」
余計な提案をしてきた恵理をひと睨みで黙らせる。冗談ではない。
「カルメン?」
「生徒と観に行く約束をしまして。せっかくのお誘いですが、またの機会ということで」
訳:矢沢遙香でも誘って行けよ。
丁重にお断りしたが、佐久間は傍目でもわかるくらいに困った表情になる。
「生徒と一緒に? これからですか? そんなことをして問題に」
「後学のためです」
さすがに見かねた主任がぴしゃりと言い放つ。
「私も生徒とよく演奏会に行きます。招待されて、それを聴きたいと思う生徒がいる以上、同行するのは当然のことです。失礼なことを言わないでください」
一変して険悪な雰囲気。涼は佐久間の腕を取った。主任に軽く会釈して退室。渡り廊下の手前でようやく足を止めた。人気がないのを確認して口を開く。
「何のつもりかは聞きません。恋愛相談でしたら余所でお願いします」
「いいえ、僕は、ただ……今後のことも含めて」
「今後も何もありません。ほとぼりが冷めたら適当な理由をつけて別れるだけです。それとも、矢沢遥香が卒業するまで私を隠れ蓑にするおつもりですか?」
半眼で見やれば、佐久間は狼狽した。
「リョウ先生にはご迷惑をかけして申し訳ないと思っています。ですから、お詫びも兼ねて食事に」
「それで矢沢さんも呼べばさぞかし楽しい食事になるでしょうね、お二人にとって」
「ち、違います! 僕はそんな……」
「いずれにせよ、結構です。茶番は学校だけで十分。私のプライベートにまで彼氏面して関知しないでください。それと音楽準備室にまで押し掛けるのもご遠慮ください」
話している時間さえ惜しくなった涼は切り上げた。
「約束がありますので失礼します。では、よい週末を」
馬鹿にしている。靴音も荒く涼は音楽準備室に戻った。
生徒に手を出したお前と一緒にするな。カルメンだ。初めての生鑑賞。それを、こちらの都合も察せずに妨害するとは一体何の嫌がらせだ。二言目には食事食事食事――自分をデートに誘いたければクラシック演奏会のS席チケットでも用意しやがれ。
怒り納まらぬまま準備室に入れば、好奇の視線が注がれる。
「修羅場でしたか?」
「百瀬先生、ノーコメントです」
自分の机に腰掛けて一息――と、そこで涼は机の上に置かれた音楽の教科書に気づいた。
「入れ違いでしたね。普通科の生徒が授業の忘れものだとかで届けに来たんですよ。渡辺先生に渡せばわかる、って言ってましたけど」
教科書からわずかに覗く白い封筒。見覚えがある。案の定、中は『カルメン』のS席招待券。それも二枚ある。どういうことだ。
まさか。
涼の額の汗が冷えた。
もしかして、もしかすると、さっきの見ちゃったりしてますかね? 人気のないところで二人っきりで密談。頑張って解釈すれば仲が良く見えたりしますかね?
そんでもって……変な気を回したりしちゃったりして。
(まさか、そんなベタな)
首を横に振ったが、その考えは振り落とせなかった。
「すみません。お先に失礼いたします」
涼は鞄を引っさげて準備室を飛び出した。