(その五)計画はしっかり立てましょう
しかし同伴者がどうであれ、オペラを観に行く、というのは心が躍るものである。機械的に選ぶスーツもネクタイも今朝に限っては出かける直前まで悩んだ。普段は全くと言っていいほどしない化粧もちょっとしてみたりして――肌が荒れるのでクリームとリップ程度で終わったが。とにかく、涼は数年ぶりのオペラ鑑賞を楽しみにしていた。
「渡辺先生、今日は何かあったんですか?」
しかしよもや、音楽準備室で同僚に訊ねられるほど浮かれていたとは思わなかった。涼はとっさに誤魔化そうとして不意に思い至った。何を隠す必要がある。変に体裁を取り繕うとするから、邪推されるのだ。
「実は今日、放課後にオペラを観に行くんですよ」
口調が弾んでいるのはまあ仕方がない。予想通り、音楽教師達は食いついてきた。
「オペラですと……」
「『カルメン』です。お恥ずかしい話ですが、生で観るのは初めてなもので」
いいですねえ、と頷いたのは音楽科主任。その後もやれ誰がカルメン役なのか、指揮者は誰だ、などといかにも音楽教師らしい話題で盛り上がった。
「しかしよくチケットが手に入りましたね。誰と――あ、愚問でしたか?」
「佐久間先生じゃありません」
涼は努めて事もなげに答えた。
「生徒ですよ。おこぼれに預かったんです」
音楽科の生徒と後学のために演奏会に行く教師は多い。担当科目上、その手のチケットが送られてくるからだ。別段不思議なことではない。そう、相手が音楽科の生徒ならば。
都合よく解釈してくれた教師達はそれ以上突っ込んではこなかった。助かったのは事実。しかし涼はこうも思う。もし、名前を訊ねられたら、自分は「鬼島天下」と答えたのだろうか。
六限目も無事に終了。充実しているせいか、それとも周囲の音楽科教師達が気を使ってくれているせいか、残業もすぐに片付いた。迎えに来る天下を待つ間に、涼は鑑賞ガイド本をぱらぱらめくった。
「やっぱりアリアと言えば『セギディーリャ』ですね。『ハバネラ』は言うまでもありませんが」
ガイドブックの一ページを指差したのは音楽科主任だった。
どちらも第一幕でカルメンが歌うアリアだ。男を次々と誘惑する魔性の女役だけあって、歌の正確さよりも色気が重要となってくる。
「エスカミーリョの『トレアドール』を忘れちゃいけませんよ、渡辺先生」
コピー機を使用していた百瀬恵理までもが参戦。それぞれお気に入りのアリアを挙げ出す。音楽科教師だけあって思い入れは人一倍あった。話し出すと止まらない。
「バリトンの響き……たまりませんねえ」
恍惚とした表情で語る恵理。気持ちはわかるが、仮にも職場で恋する乙女みたいに目を輝かせるのは遠慮してほしいところだ。
「バリトンのアリアでこんなに派手なのは『トレアドール』くらいですからね。いつもテノールが独占してますから」
「あ、渡辺先生はテノール派ですか?」
「どちらかと言えば、そうです」
「好きそうですよね。三大テノールとか……ちなみに、お気に入りは? パヴァロッティ? それともカレーラスですか?」
同類の匂いを感じ取ったらしい。恵理は嬉しそうに質問してくる。仮にも音楽教師。涼もそういう話は嫌いではない。正直にプラシド=ドミンゴだと答えた。それを皮切りに『カルメン』から三大テノールの一番は誰かという話題に移行した。
「あの……リョウ先生」
蚊の鳴くような小さな声が和気藹々とした空気に入り込んだのは、涼が陰鬱をたたえたドミンゴの美声について力説している真っ最中だった。
音楽科準備室に訪れるとは珍しい。世界史担当の佐久間だ。
「何か用ですか?」
「今日、これからお時間いただけませんか」
お食事でも、と控えめにだがその場にいた全員の耳に入るくらいの音量で言う。




