(その四)攻めてきます
S席。カルメン。ビゼー。オペラ。頭の中でくるくる回る単語たち。しかし――涼は天下の幼さの残る頬と、大人びた顎から首筋のあたりを盗み見た。
生徒と二人でオペラ鑑賞。音楽科の生徒と教師ではよくあることとはいえ、普通科の、それも音楽に大して興味もなさそうな天下と一緒というのは、非常に危険な気がする。
(ああ、でも――)
涼は内心頭を抱えた。
(行きたい超観たい……っ!)
生のオペラなんて二回観た程度。友人の好意で譲ってもらった際だけだ。タダである代わりに演目なんて選べやしない。チケットが高額な上に会員以外はなかなか手に入らないのだ。
「一緒に行きませんか?」
「……あー、一人でオペラ観てもつまらないだろうし……な。ここは一つ、先生が行ってあげてもいいかなあ、と思いますハイ」
「素直に行きたいって言えよ」
天下がぼそりと呟く。
「何か言いましたか? 鬼島君」
「いいえ、別に何も」
「ではそろそろ解散しよう。ここ、閉めます」
天下はチケットを封筒に戻して鞄を脇に抱えた。一緒に出ていく必要も見送る義理もない。涼は軽薄にも五線に浮かぶオタマジャクシを視線で追った。珍しく食い下がらないと思いきや、天下はドアノブに手をかけて振り返る。
「先生、明日の放課後ですからね」
「はーい」
「行き違いにならないように、準備室まで迎えに行きますから」
「はいはい」
「……忘れて帰るなよ」
耳に心地よい低音。もしかしなくともこれが彼の地声なのだろう。
「大丈夫だ。カルメンは忘れない。君もこんなところで油を売ってないで、早く家に帰って青春でも何でもエンジョイしなさい」
「今してるから、いいんだよ」
さらっと言うものだから、涼は虚を突かれた。
完全に油断していた。言葉が喉の手前でつっかえたように出てこない。
「……あ、そう」
と呟くのが精一杯だった。天下の顔を見ることなどできない。しがみつくように楽譜に意識を集中させた。
「先生」
「今度は何だ。早く帰りなさい」
「楽譜、逆さまですよ」
笑みを含んだ声音で指摘し、天下は退室した。残された涼はというと、恥ずかしいやら悔しいやらで上下逆の楽譜を握りしめた。
食えない生徒どころじゃない。
こっちが食われそうだ。