(その三)つけ込まれます
毎日毎日欠かさず警戒したが、天下は拍子抜けするほど真面目に手伝った。まさか本当にこれまで邪魔をした詫びのつもりなのかと涼があやうく信じかけたくらいだ。
仮に今、誰かが器楽室に突然入ってきても、涼は胸を張って何事もないと言い切れる。触れてくるわけでもなく、好意を口にするわけでもない。実に微妙な状態だ。天下の思惑が読めない。
一週間が経つ頃には、天下が器楽室に入ってきても咎める気さえ起きなくなっていた。それくらい天下は内心はどうであれ、好青年らしい行動を続けていた。他愛のない会話も、慣れれば心地よいものだ。
ともすればうっかり絆されそうになっている自身に気づき、涼が気を引き締め直した時だった。不意に、天下が訊ねてきた。
「先生ってオペラ好きですよね」
何を企んでいる。警戒モードに移行しつつ涼は教卓の上に置いた楽譜を手に取った。動揺を悟られてはならない。平静を装わねば。
「まあ、好きな方だね。どちらかと言えば」
「よく授業でも流しますし……『魔笛』とか『タンホイザー』とか」
「音楽の授業ですから」
生徒たちが少しでもオペラに興味を持ってくれれば御の字だ。時間の都合上、全幕を観せるわけにはいかないが、有名な部分を抜粋して紹介している。オリジナルのあらすじプリントも作成して配っていることを考えれば、なるほどオペラに力を入れていることも否めない。
「授業のために、わざわざレーザーディスクまで買ったりするんですか?」
「……多少、趣味も兼ねていることは認めよう。でも全部私のポケットマネーです。そこを誤解しないように」
「別に責めているわけじゃないんです。実はここにオペラの招待券があるんですけど」
楽譜から顔を上げれば「優待券」と印字されたオペラのチケット。
「『カルメン』だそうです」
涼しい顔で天下は言う。ビゼーの最高傑作ではないか。
「いつ?」
「明日。新国立劇場で七時開演です」
学校の最寄駅から新宿までは電車で一本。金曜とはいえ、早めに仕事を終えれば間に合う時間だ。
「もしかして、くれるの?」
「差し上げたいのは山々ですが、他人への譲渡は駄目だそうです」
こいつ最悪だ。涼の機嫌は急降下した。
「ほーう、わざわざ自慢しに来てくださったわけですか。どうもありがとう」
再び楽譜に視線を戻す。天下の評定を「一」にしたろうか、と職権乱用も甚だしい復讐が頭をよぎった。
「でも同伴者なら良いそうですよ」
人の悪い笑みを浮かべて天下は指をずらした。チケットは二枚あったのだ。「優待」なだけあってS席だ。通常ならば二、三万はする。