(その二)隙を見せてはいけません
「待ちません。早く終わらせましょう」
歯牙にもかけず天下は作業を続ける。事務的な対応で流されそうになるが、涼は首を横に振った。おかしい。絶対にこれはおかしい。
さりげなく好意を示してきた天下を、さりげなく拒絶したのはつい二週間前。彼はしっかり悟って諦めたのではなかったのか。だから近づかなくなったのではないか。
「どういうつもりだ」
手を止めて、天下は怪訝な顔をした。涼は中央廊下側の扉を指差した。
「張り紙が見えなかったのか」
「見ました。毎日貼ってありますから」
「じゃあ、どうして入って来る?」
「廊下側の扉には生徒入室禁止とありましたが、準備室側にはそんなことは一言も書かれていません」
涼しい顔でへ理屈をこねる。ふてぶてしい限りだ。
「だからって、無理に入ってくる必要がどこに」
「押し入ったつもりはありません。俺は渡辺先生に用があると言っただけです」
百瀬先生。あんた私に何の恨みがあるんだ。面倒くさい楽譜整理を引き受けてやった礼がこれか。
涼は壁一枚隔てた先にいる百瀬を睨んだ。残念ながら防音設備の整った部屋の壁は、視線などで貫けるほどやわではなかったが。
「作業は、はかどりましたか?」
唐突に天下が訊ねてくる。
「ものすごく順調だ。邪魔がないからな」
暗に出て行けと言っているのだが、天下は我が意を得たりとばかりに頷いた。
「じゃあ、なおさら手伝わなくてはいけませんね。数日とはいえ先生の作業の邪魔をしたわけですから」
背を向けて作業再開。涼は言葉もなかった。なんて食えない生徒だ。整理がはかどらないと追い出されて、いったんは引き下がっておき、今度はそれを逆手に取って攻めてくるとは。作業を手伝うのならば、楽譜整理の効率を理由に追い出した涼に断る理由はない。作業の邪魔をした詫び、という大義名分が成り立つのだ。
「部活はどうした」
「今日は自主練です。終えました」
「別に手を貸してもらうほどの」
「結構な量ですね。邪魔がなくても二週間以上かかっていますし、猫の手も借りたいとぼやいていたそうですね。百瀬先生が言ってました」
天下は口端をつり上げた。
「手伝ってくれるのならありがたい、とも言ってましたよ」
トドメの一撃だった。涼は自分の分が悪いことを悟った。
鬼島天下が優等生と呼ばれる所以がわかったような気がした。彼は周到に計画を練るのだ。あからさまに好意を示さないのも、涼に断らせないための策だ。善意の中に少しずつ好意を混ぜて懐柔する。傍目から見れば親切心にしか受け取れないので、涼もおいそれと拒むことができない。
押せば引き、引けば押す。涼は流されやすい自分を知っていた。だからこそ、隙を見せないよう振舞っていた。面と向かって「好きです」と言われれば迷わず断る。微塵の容赦なく。躊躇うこともなく。それが流されやすい自分を守る手段だ。
そんな涼にとって、天下は一番厄介なタイプだった。なんとなくで、ずるずると関係が続き、気づいた時には情が移って後戻りができなくなる。
涼が、一番流されやすいタイプでもあったのだ。