四限目(その一)油断は禁物です
鬼島家の不審な点を目撃しても涼のすることに変わりはなかった。存在意義のわからない会議に参加し、音楽科の生徒に声楽を教え、普通科の生徒には音楽の触りを教え、そして空いた時間には器楽室の楽譜整理に明け暮れる。
変わった点といえば、鬼島天下の対応だ。無視、とまではいかないが、他の生徒となんら変わりのない接し方――むしろ素っ気ない対応をした。間違っても二人きりにはならない。近づいて来ても半径三十センチメートルには入れない。そういったさり気ない変化にも敏い天下は涼の意思を汲み取った。時折、物言いたげな視線を送るものの、深くは追及してこなかった。涼がそうさせる隙を与えなかったのもあるが。
ともかく、天下と涼はただの生徒と教師に戻った。以前よりも関わりのない存在になったのだ。二週間が経過したところで何も起こらなかったので、このまま薄れていくのだと涼は安心していた。
当初は永遠に続くとさえ思えた楽譜整理もだいぶ目処がついてきたのもあって、涼の関心は佐久間と遙香の二人に移行していた。これからどうするつもりなのだろうか。それだけが悩みの種だった。
つまり、涼は完全に油断しきっていたのである。
「渡辺センセーイ、お呼びですよー」
音楽科準備室と通じる扉から恵理が声をかける。涼は手が塞がっていたので「どなたですか?」と大きめの声で訊いた。が、返事がない。聞こえなかったようだ。
「通しちゃいますねー」
と、恵理の声。涼は棚の一番上にある楽譜ファイルを引っ張り出した。音楽準備室からは背を向けたまま。後先考えずにぎっちぎちに詰め込まれていた楽譜が一斉に崩れ落ちるのを、片手で止める。とりあえず、全部出してしまおうかと涼がもう片方の手を伸ばした時だった。
横から落ちかけた楽譜を支えるように腕が伸びた。なんと親切な学生だろう。涼は「あ、悪い」と反射的に口にしようとして、止まった。
――学生。
「大丈夫ですか、先生」
油の切れたブリキよろしくぎこちなく首を動かせば、真横には鬼島天下がいた。
「一度、全部出した方がいいですね」
涼の返事も待たずに楽譜を取り出し、傍にあった机の上に山積みにする。あまりにも自然な動作に口を挟む間すらなかった。唖然とする涼に、天下はいつもの優等生面で言う。
「俺が出しますから、先生は整理をお願いします」
「あ、ああ……どうも」
涼は分別を始め――かけて手を止めた。
「ちょっと待て」




