あとがき
……になるはずでしたが、四日間考えても何も思い浮かばなかったのでおまけです。
【一人目】
「いやあ悪いねえ」
へらへらと笑いながら恭一郎は婚姻届を差し出した。言葉と態度がここまで伴っていないのはいっそ清々しい。
「僕としたことが、ついうっかり」
「うっかり、ですか」
鬼島天下の名前に二重線を引いて訂正印まで押して、自分の名前を上に書くってどういう間違えなんだろう、と天下は思った。故意と表現するのも生ぬるい。悪意しか感じられない。
「神崎恭一郎」とやけに丁寧に『うっかり』書かれた姓名を恨みがましく見てしまうのは、致し方ないと言えよう。そもそも既婚者のくせに妹と結婚しようとするのはいかがものか。やはり証人にこの人を選んだのが間違いだった。
「悪いけど、また一から書き直して……」
「お気遣いなく」
天下はクリアファイルから婚姻届を取り出し並べた。
「そういうこともあろうかと五枚用意しましたので」
天下と涼の記入欄は全て埋まっている婚姻届四枚。七枚はさすがに多いかと思っていたが、存外そうでもないらしい。まず涼が緊張のあまり二枚書き損じた。そしてこの節操のない兄が一枚を無駄にした。
「は?」
「ペンはこれをどうぞ。今、ここで書いてください」
「い、いや、なんで」
「お手数ですが四枚全部に書いてもらえますか? 印鑑も。あともう一人、証人に署名捺印してもらうので」
「用意周到過ぎやしないかな⁉︎」
「そりゃあそうでしょう。うっかり間違える方もいますから」
悔しげに歯噛みする恭一郎に、天下は笑みを浮かべた。高校生時以来の似非優等生スマイル。
「よろしくお願いしますね、お義兄さん」
【二人目】
婚姻届の証人はお互いに一人ずつお願いすると決めた。天下から渡された婚姻届三枚に恭一郎の署名と捺印があることを確認してから、涼は鞄に入れた。
南浦和駅から歩いて十分弱。住宅街の中にある教会、その牧師館の呼び鈴を鳴らした。事前に話はしておいたのですんなりと中に通された。
「では、式は挙げないんですね」
「親族と親しい友人を招いて食事会にしようかと」
暗に挙式をしないと告げたのだが、目の前の牧師は満足げに頷いた。
「賢明なご判断です」
『のんちゃんの結婚式は、はちゃめちゃだったからねー』
テーブルの隅に置かれたスピーカーから横やりが入る。一度も姿を見たことのない牧師の姉だった。極度の人見知りの引きこもりの割には口調はいつも明るい。
「挙式はここで?」
「ま、まあこの教会の牧師ですので」
結婚を神聖視するキリスト教なので、結婚式を挙げざるを得なかった、というのが正直なところ。せめて親族と教会員だけでこじんまりと行うはずが、他教会の牧師や友人やらが大挙して押し寄せて来たらしい。
「ありがたいことではあるんですけどね。仮にも晴れの日ですから。さすがに刃傷沙汰は避けたいといいますか、絶望して自殺者が出るのを防ぐためといいますか」
『結局、新郎新婦が逃げ出して収拾つかなくなったもんね』
「あーはいはいその節はご迷惑をお掛けしました」
よくわからないが相当大変だったらしい。
牧師は万年筆と用意していた印鑑で署名捺印してくれた。お決まりのごとく一枚書き損じたのはご愛嬌だろう。結婚前の旧姓を書いてしまったのだ。
「神の御心にかなうものでありますように」
それでもやはり牧師は牧師。婚姻届を書き終えたら、婚姻に際しての聖句を贈り、勧告をし、祝福を祈ってくれた。
結婚式が挙げられなくても、と涼は思った。十分だった。必要よりも満たされて、溢れ出そうだった。天下と出会ってからこの方、望んだ以上のものを受け取り続けている。
「これで完成、ですね」
必要事項が全て記入された書類を、涼は手にとって眺めた。たかが紙切れだと人は言う。その通りだ。しかし婚姻届は一人では決して完成しない。当人とそれを喜び祝福してくれる人がいなければ。
天下は今頃何をしているだろう。今日は定時で帰ると言っていた。らしくないとは思いながらも、駅まで迎えに行こうかと考えた。埋まった婚姻届を見てほしかった。
涼がお暇する時になって、牧師の家族が顔を出した。引きこもりの姉ではなく、背の高い、細身の男性だった。
「お邪魔いたしました」
「いえ、大してお構いもせず」
如才なく応じる男性に、何故か涼は出会ったばかりの頃の天下を思い起こした。似非優等生と揶揄していたそつのなさ。すれ違い様に男性は小さなため息をついた。
「参列者が全員女性でしたら問題なかったんですけどね」
「え?」
「いえ、こちらの話です」
男性は話題を逸らすかのように「書き損じはしませんでしたか?」と訊ねた。涼は苦笑した。
「私も失敗しましたし……皆さん間違えるものなんですね。余分に用意して大正解です」
「そうでしょう。備えあれば憂いなしと言いますから」
どこか謎めいた男性はしみじみと呟いた。