【番外編】恋せよ青年、何度でも(転)
改めて話せば至極単純で、どこにでも転がっているようなありふれたことだった。
住所変更手続きで足を運んだ区役所。そこでなんとなくもらった婚姻届ーーなんとなくというのも語弊があるかもしれない。隣の戸籍課でたまたま婚姻届を提出している人がいた。気になって、住所変更届けを出す際に「婚姻届ってあるんですか」と訊ねたらあっさり一枚くれたのだ。婚姻届の用紙は無料だということすら知らなかった天下は正直、拍子抜けした。二人の名前を書いて、戸籍謄本を用意して、証人二名の署名をもらう。たったそれだけで、夫婦になれるのだ。
天下とて今まで結婚を考えていなかったわけではない。ゆくゆくはとは思っていた。が、急に現実味を帯びてきた婚姻を前に、ある種の尻ごみをしてしまった。
既に涼とは同棲している。お互いに仕事もしている。元生徒と教師であることを咎められる心配は、もうない。後ろ指を差されることはないのだ。毎日充実している。
つまり、結婚する必要性を感じていなかった。婚姻届はいつだって提出できるのだから。
「あなた自身、あまり結婚に乗り気ではない、ということでしょうか」
「いや、俺はしたい」
自分の気持ちは正直に言える。彼女とこれからもずっと一緒にいたい。彼女を孤独にさせたくない。
「でもそういうのって俺が勝手に思ってるだけで、す、相手は現状で満足しているんじゃねえかと」
「確かめたのですか?」
天下は首を横に振った。
元々、こちらが押して押して押して始まった交際だった。涼はとにかく道を外れることを恐れていて、潔癖で、人前で手を繋ぐことですら半年くらいは許さなかった。そういう人だと知りながら好きになったのは自分だ。涼に対して不満はない。
ただ、不安はいつもあった。今この時でも。自分は重いのではないか。涼の負担になっているのではないか。独りよがりではないのか。常につきまとう不安や迷いと折り合いをつけながら、五年近く共にいた。彼女が好き。独占したい。自分だけのものになってほしい。自己中心的な感情や情熱だけで押し切れるほど、天下は子どもではなくなった。
「正直言って、現状にこれといった不満があるわけじゃない。事実婚という言葉もあるし、形にこだわる必要はないじゃねえかって」
「お互いの意思が明確ならば、あえて書類を提出する必要はない。たしかにそれも一つの選択肢ではありますが」
男性はしばし考える素振りを見せた。長い睫毛を僅かに伏せる様は憂いを帯びているようで、どこか艶めいた表情だった。
「たとえば今、あなたが倒れたとしたら」
たおやかな人差し指がカウンターを順に突く。
「病院に運ばれて、真っ先にその連絡が行くのはご実家でしょう。次はお勤め先。あなたがどこかの部やサークルに所属しているのならそのメンバーに、熱心なクリスチャンならば所属している教会の教会員に。仮にそのままお亡くなりになったとしたら、あとは卒業した大学や高校、中学校の同窓会を通じて旧友達に、くらいでしょうね」
天下は押し黙った。言わんとしていることを理解したからだ。
「仮にあなたの『同居人』にも連絡が入って、病院なりあなたのご実家なりに駆けつけたとしましょう。倒れた息子の交際相手だと名乗る『他人』を、あなたのご家族は一体どのような目で見るでしょうか」
まず間違いなく驚くだろう。弟の統と一には紹介しているが親には「交際している人がいる」としか伝えていない。成人して社会人となった息子の高校時代の教師がいきなり駆けつけたら、一体何事かと訝しむに違いない。
懐疑的な眼差しを向けられた涼は、どうするのだろう。親に自分達の関係を説明するのだろうかーーそれとも、黙って引き下がるのだろうか。ひとりでこらえるのだろうか。養い親を失った時と同じように。
「他人とはそういうことです。お互いに束縛しない代わりに、相手に何があっても責任を負うことができず、二人のつながりを証明する手立てもない」
「でも、相手の重荷にはならない」
「だから何です? 道端の石でさえも躓けば怪我をします。私という存在が生涯唯一と決めた方にかすり傷の一つも残せないのは不条理でしょう」
さらりと告げた言葉には暗い熱が孕んでいた。あるいはそれは狂気と呼ぶものかもしれない。天下は肌が粟立つのを感じた。
「それに束縛が必ずしも相手の負担になるとは限りませんよ。少なくとも私は、」
誰にも握らせたくなかった、とその人は言った。誰にも支配されない、縛られないように生きてきた。そんな自分の生き様に後悔はない。間違っていたとは思わない。だが、自由の代償が孤独であることを知った時に、どうしても欲しくなったのだと彼は言う。
独占し束縛することではなく、束縛されることを。奪うのではなく、与えることを。
「私に巻きついた鎖の先端を、彼女に握っていてほしいと思ったのです」
一途に、ただひたすらに想いを馳せる姿は壮絶なまでに美しかった。天下は自身の頰に熱が集まるのを感じて、思わず目を逸らした。本能的な危機感と言ってもいい。この男性とどうにかなりそうで恐ろしかった。
「……踏み込み過ぎましたね」
軽く笑みを含んだ声音。謎めいた男性は席を立った。
「最後に先達から一つ忠告します。婚姻届は余分に用意した方がよろしいかと。自分もそうですが、相手も書き損じる可能性がありますから」