【番外編】恋せよ青年、何度でも(承)
いざ外に出たものの、特に行き先も決めていなかった。
ひとまず天下は近くの喫茶店に足を運んだ。個人経営の小さな喫茶店は、話題になるような看板メニューもなければ目を張るほど美味しいわけでもない。全てが及第点の店の常連となっている理由は、店内に流れる曲にあった。レトロ主義らしくレコードを流しているのだ。それもクラシックの廃盤になった貴重なものを、惜しげもなく。初来店時で当然ながら音楽科教師の涼は気づいた。で、そのまま月に二、三回は通う常連になった。
カウンター席につき、注文した珈琲が出されるのを待つ。手持ち無沙汰になった天下は鞄からスマホを取り出そうとして、手を止めた。鞄の口から顔を出している手帳。そこに挟んである用紙が目についたからだ。
取り出した黒い革手帳を天下はぼんやりと眺めた。毎年同じものを買っているので手帳自体に特に思い入れはない。問題は中身だ。かさばるので手帳にはなるべく付箋やレシートの類は挟まないようにしている天下だが『これ』だけはずっと、受け取ってから約一ヶ月もの間、挟んだままだった。
「よろしいでしょうか?」
天下は顔を上げて、たっぷり五秒ほど固まった。無礼にあたる行為であることも忘れて、声を掛けてきた男性を凝視する。
歳は三十前後、だろう。しみやしわ一つない肌は滑らかで顔立ちが驚くほど整っている。細身にカジュアルスーツを纏う様はどこか危うさを孕んでいながら、若者にはない落ち着きを持ち合わせた。アンバランスな男性だった。二十代と言われても驚かないし、四十代だと言われても納得できそうな気がした。
「……どうぞ」
辛うじて天下が答えると、男性は軽く会釈した。周囲を見回せば、店内にいたほぼ全ての者が彼に釘付けになっていた。が、当の本人はまるで頓着せずに天下の隣に腰掛けて、紅茶を頼んだ。
芸能人だろうか。一度見たら忘れないほどの美貌だが、天下の記憶にはなかった。
珈琲が運ばれてきたのと同時に無意味な思考はやめた。隣の男性がどこの誰だろうと自分には全く関係ない。お愛想程度に珈琲を口にして、再び手帳との睨めっこを再開した。万年筆を手の中でくるくると回す。肝心の手帳は開けることすらできなかった。
「婚姻届ですか?」
天下は椅子から転げ落ちそうになった。完全な不意打ちだった。大げさな反応に声を掛けた側の男性も驚いたようで、目を瞬いていた。
「すみません。突然失礼なことを」
「いえ……こちらこそ」
気恥ずかしさも手伝って、天下は話題を変えることにした。手帳から折りたたんだ用紙を引っ張り出した。男性の指摘通り、それは先月別件で足を運んだ区役所でもらった婚姻届だった。
「よくわかりましたね」
これといった特徴のない用紙だ。一目で、それも端を見ただけで判別できるものなのか。
「万年筆を用意してまで書く書類は限られていますからね。あとは……経験上、そういう関係のことには敏感なもので」ほんの少し得意げな響きを伴って付け足した「私の連れ合いも」
「ご結婚されているのですか?」
「ええ。周囲には猛反対されましたが」
深く追及していいものか。逡巡している間に本人から説明された。
「私は大変素行が悪いので信用できない、というのが連れ合いの家族の意見。大変素行が悪いから首輪をつけて鎖に繋いでおく、というのが連れ合いの主張でした」
「ペットかよ」
思わず突っ込んだ天下だったが、男性は気を悪くした様子もなく「飼い主には忠実に。今は大人しく飼われております」と言って、左手を見せた。薬指にはたしかに結婚指輪があった。これが『首輪』なのだろう。
「よろしければそちらのご事情を伺っても?」