【蛇足】恋せよ音楽家、熱烈に(その十)
そして真打登場。事前のトラブルなど全く匂わせない堂々たる様で吉良醒時は、ステージ上にセッティングされたスタンウェイへと歩を進めた。
途端、割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。耳を聾するほどの轟音だ。先ほどの零の登場時とは比較にならない。
入れ替わるようにして零は戻ってきた。垂れ下がった腕。どこか覚束ない足元。文字通り満身創痍で零は演奏を終えた。出迎える格好となった涼と須藤に、ゆるやかな笑みを見せる。
「繋ぎにはなっただろ?」
誰からもかえりみられることもなく、たった一人で舞台の袖に引っ込んだ零。いつものことだと割り切っているようだったが、そんなに簡単なものではないことぐらい、涼にだってわかっている。
彼女は音楽家だ。舞台に立つこのひと時のためにどれだけの苦労を重ね、情熱を傾けただろう。そんな渾身の演奏を前座扱いされた屈辱はいかばかりか。
拍手喝采を受ける醒時を黙って見つめる零が哀れだった。醒時に負けるとも劣らない実力の持ち主だから、尚更だった。
「チャンスをありがとう。期待に応えられなくてすまなかったな」
やはり気づいていたのか。零は須藤に頭を下げた。
「いえ、私は」
「あいつが気に入らないのはよくわかるよ。オレもあいつの金平糖に塩混ぜたり、この前のリハーサルの時には睡眠薬盛ったりした」
え、と間の抜けた声が涼の口から漏れた。先日のリハーサルで醒時氏が不調だったのもてっきり須藤の差し金かと思いきや身内だったとは。
「でも本番前はさすがにやめておけ。周囲の方の迷惑だ」
そういう問題でもないような気もしたが、須藤が神妙な顔で頷いたので、それ以上は突っ込まないことにした。零のおかげで危機は免れた。吉良醒時の演奏は予定通り行われる。何も問題はないーーはずだ。きっと。おそらく。
舞台袖から羨望と嫉妬を受けながらも醒時は平然と椅子に腰かけて鍵盤に手を伸ばした。転がすような軽いアルペジオ。そのメロディーは、リハーサルで弾いた『革命のエチュード』ではなかった。
「あいつ……っ!」
須藤は歯ぎしりした。彼ほどあからさまにはしなかったが、涼も内心ではどうかと思った。
醒時が弾き始めたのは、ラフマニノフ作曲の『パガニーニの主題による狂詩曲』それも四十三番。簡単に言えば、パガニーニの『二十四の奇想曲の第二十四番』をピアノとオーケストラ用に編曲したもの。つまりは、先ほど零が弾いた曲と同じなのだ。
実力差を見せつけるかのように、醒時は軽やかに弾きこなす。伴奏のオーケストラがいなくともピアノ一台で事足りる。文句なしの素晴らしい演奏だった。
「本当に嫌な奴だ」
ヴァイオリンを胸に抱えたまま座り込んだ零が呟いた。
「パガニーニはオレの十八番なんだぞ。知っててわざと弾いてやがる」
「学生時代と同じように?」
「一回キレたことがあるんだ。でも駄目だった。通じない。あいつは、あれが悪いことだと微塵も思っちゃいないんだよ」
好きなんだってさ。
告白した零は照れくさそうに頭をかいた。何が、とは訊かなくてもわかった。聴いた直後に同じ曲を演奏することが嫌がらせや意趣返しでないとすれば、考えられるのはたった一つだけーー好きなのだ。零のパガニーニが。少年と見紛うほどの小柄な身体が紡ぎ出す迫真の超絶技巧が。
だから同じ曲を演奏したくなる。その根底にあるのは意趣返しでも悪意でもない。同じ音楽家としての対抗心であり、純粋な憧憬であり、敬意だ。
「弾きたいから弾く。より高みを目指したいから全力で最高の演奏をする。自分の演奏が他人に与える影響なんてこれっぽっちも考えないんだよ」
作曲家としてのニコロ=パガニーニの評価は決して高いとは言えない。超絶技巧を重視するあまり音楽の本質を蔑ろにしていると言われることさえある。
ピアノにおけるラフマニノフやリストに比べたら、パガニーニの評価は低い。しかしラフマニノフやリストも、パガニーニのヴァイオリン独奏曲をピアノにアレンジした曲をいくつも世に送り出している。彼を踏み台にするためではない。誰よりも高くパガニーニの曲を評価し、愛しているからだ。
舞台袖での悶着など露知らず、吉良醒時は一曲を弾き終えた。約六分弱。当初の『革命のエチュード』に比べたら大サービスと言っていいだろう。何しろ世界で屈指の権威と名声を誇るピアノコンクール優勝者だ。謝礼は額を言うのも憚れる程少ないのに。
予定ではここで吉良醒時は退場して演奏会は終了、となるはずだった。
「……あいつ、アンコールやる気だ」
伏せていた零が顔を上げた。彼女の言葉を肯定するかのように、舞台上の醒時は椅子に座ったまま微動だにしない。割れるような拍手喝采の中で、ただ鍵盤を見つめている。
「リストですかね?」
反対側の舞台袖から移動してきた理恵が、一緒に舞台を覗く。琴音ならばまだしも、大して親交のない涼には醒時が何を考えているのかはわからない。
だが、根拠もないが、今の醒時はリストを弾かないと確信めいた予感があった。他の舞台ならばいざ知らず、零がいるというのに、一人で完結させるとは思えなかった。
拍手が収まらない中、醒時の指が鍵盤に伸びた。軽く旋律をなぞる。ジャズのような、優雅な旋律。タンゴだ。アンコールで、タンゴ。疑問符を浮かべる音楽科教師一同の傍ら、零は「あー」と呻いた。緩慢とした動作で立ち上がり、確認するようにA線の弦を指で弾く。
「い、行くんですか」
須藤が素っ頓狂な声をあげた。歩くことさえ覚束ない状態では、とても一曲を弾けるとは思えなかった。
「お呼びなら仕方ないさ」
零は肩を竦めた。
「逃げたくないんだ。あいつにだけは」
息は上がり、疲労からか指先が震えている。それでも零は顔を上げた。前を見据える横顔には何ものにも挑もうとする意志の強さがあった。命そのものを燃やす美しさだった。