【蛇足】恋せよ音楽家、熱烈に(その九)
とりあえず、嫌がらせとしか思えない脅迫状を送りつけた奴を脳内でタコ殴りにした後、涼は会場へと向かった。
千人近い観客で埋め尽くされた体育館は異様な熱気に包まれていた。不運なことに予定よりも早く最後の演奏も終わり、会場はエキストラの登場を今か今かと待ちわびている。
「三十分、時間を稼ぐ必要があります」
舞台袖で涼は厳かに告げた。途端、音楽科教師陣と本日の演奏を終えた音楽科の生徒七名が一様に神妙な面持ちで沈黙する。あからさまに目を逸らす者までいる始末。
「どなたかもう一曲演奏できないでしょうか」
仮にも音楽科。誰しも課題曲は常に持っている。何一つ演奏できる曲がない、などということはありえない。
しかし、誰一人として手を挙げる者はいなかった。
理由は単純明快。観客は既に吉良醒時が現れると思っているからだ。日本人初のショパンコンクール優勝者。現代最高のリスト弾き。スタンウェイの貴公子。輝かしいピアニストの代役とくれば、どんな自意識過剰な人間でも尻込みする。
以前にも目にした光景だった。
記憶を辿ればすぐに思い起こせる。大学の創立記念音楽祭の時だ。特別ゲストとして呼ばれた吉良醒時の演奏を生で聴いた音大生がこんな途方に暮れた顔をしていた。
世界でも最高位のピアノ演奏を聴かせることにより音大生達の競争意欲を高めるーーはずだった。が、過ぎた良薬が毒になるのと同じように、吉良醒時の演奏もまた劇薬だったのだ。
『音楽家殺し』とはよく言ったものだ。吉良醒時の前ではどんな演奏者も萎縮し、怖気ずく。
「誰もやらないのか?」
葬式さながらの陰鬱な雰囲気を払拭したのは、吉良醒時の妻である零だった。背負っていたケースからヴァイオリンを取り出して調弦を始める。
「やって、くださるのですか?」
「責任の一端はオレにあるからな。それにせっかくの晴れ舞台だ。誰も希望者がいないなら喜んで演奏しよう」
零は片頬を歪めて笑った。挑発的な笑みだった。
「音楽科もずいぶんと変わったな。昔はこんなチャンス、争奪戦だったぜ?」
準備を終えた零はてっきり舞台袖から登場するのかと思いきや、どういうわけか体育館の入り口まで戻った。ステージに熱い視線を向ける観客達には気づかれない。
零はヴァイオリンを構えた。愛用のカールヘフナー。質の良い楽器ではあるが超高級品でもないそれを、零は殊の外大切にしているという。
零は鋭い一音を放った。
思いもよらぬ場所から、思いもよらぬ演奏。一斉に振り向く観客達の間を通って、零は悠然と歩をすすめた。華麗なアルペジオをこなしながら、だ。
「……カプリース」
呆然とした呟きが、誰からともなく漏れた。
パガニーニの『二十四の奇想曲の第二十四番』。人間離れした演奏技術ゆえに『悪魔に魂を売った男』とまで呼ばれた作曲家、ニコロ=パガニーニが生み出したヴァイオリンの独奏曲だ。
淀みなく軽やかに弾きつつ、ステージにまで登った零はオクターブ演奏から、激しい和音、高速のピチカートと超絶技巧をこれでもかと披露する。情熱的かつ華麗な演奏は、まさに楽器の女王と呼ばれるに相応しかった。
涼は自分の失態を悟った。
不覚にも零の演奏姿を目の当たりにしてようやく気づいたのだ。吉良零もまた音楽家であることを。
理恵にも琴音に連絡するよう言われたが、涼の中で琴音を経由して吉良醒時とコンタクトする選択肢は最初からなかった。何故なら琴音が『吉良醒時の妹』という目で見られることを嫌うからだ。常に兄と比較された琴音がどれだけ惨めな思いをしてきたかも知っていた。同じ音楽家だからこそ、傷つくのだ。
それは、まるっきり吉良零にも当てはまることではないか。
「素晴らしいでしょう?」
誇らしげな響きを伴う声音に、涼は違和感を覚えた。隣を見やれば、同僚が熱に浮かされた表情で舞台を眺めていた。理恵ではない。彼女は反対側の舞台袖で食い入るように零の演奏を見ている。
呟いたのは須藤学。歳は三十を越えているはず。厳密に言うと彼は音楽科教師ではない。専門の楽器奏法を教える講師だ。須藤はヴァイオリン専攻生を担当している。たしか、吉良醒時と同じ高校出身でーーつまり。
「浅野零の演奏をよく知っていた、というわけですか」
「ええ」須藤はあっさりと認めた「彼女は天才です。私などには足元にも及ばないヴァイオリニストです」
その点については涼も異論はない。超絶技巧を弾きこなす技量、聴衆を魅了する迫力と度胸は、間違いなく一流演奏者のものだ。
しかしたった一つだけ、零にとって不幸なことがあった。
「全部あの男が握りつぶしたんです」
須藤は忌々しげに吐き捨てた。
「今でも覚えています。高校時代の校内演奏会。あの時も浅野零は素晴らしいカプリースを披露した。前代未聞のアンコールまで湧いたんですよ? 高校一年生の演奏に」
ところが零はアンコールに応じることができなかった。
「超絶技巧の直後ではまともな演奏はできない。だったらそのまま終わりにすれば良かった。なのに伴奏をしていただけのあの男がしゃしゃり出た。挙句、張り合うかのように浅野零と同じ曲を演奏したんですよ! 伴奏を必要としないピアノで! ヴァイオリンを嘲笑うかのように!」
結果、スポットライトは吉良醒時だけを照らした。吉良醒時の演奏の前に浅野零は霞んで消えた。
「だからって脅迫状を送るなんて」
「単なる意趣返しです。どうせあの男は恥ずかしげもなく平然とやってきて演奏しますよ」
「ご名答」
須藤は弾かれたように振り向いた。
白いシャツに映える黒の燕尾服。典型的な正装で完全武装した吉良醒時が、スタンバイしていた。罵倒も陰湿な嫌がらせも物ともせず、鼻を鳴らして嘲笑う。
「障害物にさえならん凡人めが。陳腐な同情で零を語るな」