【蛇足】恋せよ音楽家、熱烈に(その七)
サリエリさん(仮)は考えた。
やはり定番は一服盛ることだろう。万が一見つかった時も誤魔化しようがある。何よりも本人と直接対峙せずに済むことが大きい。正直、真正面から挑んで敵う相手ではなかった。体格差というのはどこまでも無情だった。
それに首尾よく事を成しても最大の敵がそばに控えている可能性が高い。異母兄妹の琴音だ。義妹に半殺しにされるのは嫌だった。
積極的とも消極的とも取れない理由からサリエリさん(仮)が用意したのは下剤と睡眠薬。どちらも即効性かつ強力なものだ。
リハーサルの日は把握している。関係者だけとはいえ、人前で醜態をさらせば吉良醒時の面目は丸潰れ。スタンウェイの貴公子は奇行子として話題になるだろう。
成功したあかつきには奴の無様な姿を写メに撮ってネットで拡散してもいい。CDにサインしたぐらいでネットでファンが騒ぎ出すようなピアニストだから効果はかなり期待できる。
(覚悟しろよ吉良醒時!)
サリエリさん(仮)は勇んで薬を混入させた。
陰で復讐を企んでいる者の存在などつゆ知らず、吉良醒時は専用ピアノのロックが解錠されるのを待っていた。
厳重に厳重を重ねまくった警備下にある『愛しのお兄様専用スタンウェイ様』はその解錠一つにもえらく手間がかかる。指紋認証機能までついていた時点で、涼はもう何一つ突っ込まないことを心に誓った。スマホにだって指紋認証機能がある(と、先日天下から教わった)ご時世である。高級スタンウェイのピアノに指紋認証機能と防弾加工されたケースが備え付けられてもおかしくはない。そういうものなのだと自分に言い聞かせた。
「それにしても大げさな警備ですねえー……」
よくもここまで正直に言えるものだ。涼は思わず醒時の顔色を伺ったが、理恵の呟きなぞ聞こえてないのか気にも留めていないのか、彼は金平糖を齧っていた。スタンウェイの貴公子と金平糖。なんとも形容し難い光景だった。
とはいえ、これは有名な話だったので、涼も大して驚かなかった。
醒時に限らず演奏家というのは意外に体力が勝負だ。練習曲でも十数分。協奏曲ともなれば一時間を超える間、文字通り休みなしで演奏し続けるのだ。鍵盤の上で指を走らせるためにはもちろん、集中力を維持するにも体力が必要なのである。
そのため、演奏前に脳に栄養を補給する演奏家は結構いる。吉良醒時の場合は、数粒の金平糖だ。
いよいよ『愛しのお兄様専用スタンウェイ様』の封印が解けるその時――不意に、醒時が顔を顰めた。
「どうかされましたか?」
思わず声を掛けた涼を一瞥。醒時は口にハンカチを当てた。
「……何でもない」
「醒時様」護衛の一人が恭しく一礼「準備が整いましたので、どうぞ」
小さく頷いた醒時は何事もなかったかのように悠然とピアノへと歩んだ。手を拭いてから蓋を開ける。宙を仰いで、おもむろに鍵盤へと指を伸ばした。
最初の和音で何の曲かは判明した。「あ」と声をあげた時には既に高速のアルペジオが雪崩のごとく始まっていた。その技巧。一打一打が放つ音色は、筆舌に尽くし難い――が、
「「『革命』かぁ……」」
涼と理恵の呟きとため息が合わさった。
予感はしていた。だってほぼ無料だし、権威の欠片もない一公立高校の校内演奏会だ。それで超有名なショパンの練習曲を弾いてくださるだけでも感謝感激するべきだろう。だが、人間の欲というものに際限がないのもまた事実。
「この一曲だけですよね」
『ショパン12の練習曲作品10 第12曲』別名『革命のエチュード』は、リストの超絶技巧に比べたら簡単とはいえ、弾きこなすのは大変な曲だ。有名な曲なので、聴衆の耳も厳しくなることを鑑みれば相当な実力と自信がなければ弾けない曲でもある。醒時の選曲は良心的と言えよう。だが、この曲には致命的な欠点があった。
「三分もないですよね」
短いのだ。それこそあっという間に終わるのだ。ひたすらに高速のパッセージを見せつけて終わる曲である。そして醒時は早弾きが得意である。こちらにとって都合の悪いことが重なり過ぎている。
「リストだったら最高だったんですけどね」
「それこそ高望みでしょう」
涼は苦笑した。醒時が最も得意とするのは超絶技巧の代名詞フランツ=リストの作った曲だ。だからこそ『二十一世紀最高のリスト弾き』などという称号も所持している。
無理だとは思いながらも、音楽科では密かに期待されていた。最高とまで言わしめた生リストを披露してくださるのではないかと。
「満足するべきですよ、公立高校の音響も整っていない体育館で吉良醒時の演奏が聴けるなんて」
「まあ、それはそうですけどね」
理恵も渋々納得した頃に吉良醒時のリハーサルは終了した。時間にしてわずか十分。本番はもっと短いだろう。そのわずか数分のために費やした労苦と費用を考えると涼は頭痛がした。
「見送りはいい」
端的に告げて、醒時は踵を返した。その背中に向かって涼と理恵は頭を下げる。
「本番もよろしくお願いいたします」
来た時と同様に醒時は護衛を引き連れて去っていった。どことなく、急いでいるように涼の目には映った。理恵も同じことを思ったらしく首を少し傾げた。
「具合がよくないみたいですね」
吉良醒時は逸る心を抑えて車に乗り込んだ。
誰もいないことを確認するなり後部座席に身を沈める。舌打ちを一つ。眩む意識の中で懐から小瓶を取り出し、護衛に放った。
「病院に」
「いや、自宅に戻る」
醒時の性格をよく理解している運転手はそれ以上何も言わずに車を発進させた。醒時は大きく息を吐いた。
「オレとしたことが……っ!」
まったくもって不覚だった。ここ最近は平穏過ぎて、危機察知能力が低下していたようだ。とにかく、自分はまんまと一杯食わされたのである。
屈辱に醒時は拳を握った。