【蛇足】恋せよ音楽家、熱烈に(その二)
「オレは構わん」
「そうですよね。愚問でした。本当にすみませんでした。連中には私の方からきつく言っておきますので、なにとぞご容、赦……を……?」
涼は下げかけの頭を、逆に弾かれたように上げた。珍妙な動作にも吉良醒時は大して反応せず、素っ気なく言った。
「当日特に予定はない。断る理由もない」
いやあんたショパンコンクール優勝者だろ。そんなあっさり引き受けるなよ。涼は声を潜めた。
「あの、謝礼……雀の涙レベルですよ? うち、公立なので」
「放課後に一曲、それも特別出演。拘束時間が少なく選曲も自由ならオレの好きに弾かせてもらう」
「一応スタンウェイではありますけど、そんなにいいピアノじゃ」
「公立高校ならばそれで十分だ。期待などしておらんわ」
マジか。涼は開いた口が塞がらなかった。残念ながら醒時は冗談を言う性格ではない。それは、大して交流のない涼ですら知っていることだった。
そもそも、こうして時間を割いてもらえたことがまず奇跡的だったのだ。
以前に吉良醒時の奥様――吉良零とメルアドを交換していたことが幸いした。テレビで報じられている通り、ちょうど帰国していた醒時が過密スケジュールを調整し喫茶店で会ってくれるという。その時点で涼は使命以上の成果を出した気になっていた。
いくら妹と親交があるとはいえ、吉良醒時と直接会ったのはこれが三度目だ。しかも一度目は六年前、涼が通っていた大学の創立音楽祭のゲストとして醒時が招かれた時。醒時にとって涼は大勢いる聴衆の一人に過ぎなかっただろう。
「理由を訊いてもよろしいですか?」
意味をはかりかねるかのように、醒時は切れ長の眼を僅かに細めた。六年前に涼が質問をした時もたしか、こんな表情をしていた。
「愛する妹の友人の勤める学校の出演依頼――縁故にしては遠過ぎやしませんか?」
「その縁だけを頼りに出演依頼してきた人間の台詞ではないな」
「駄目元ですよ。一応頼んだ、という既成事実さえあればそれで良かったんです。私は全然期待していなかった。むしろ絶対に断るだろうと思っていました」
「オレもだ」
唐突にかつ傲然と言い放つ醒時。六年という時が経過しても何百人という聴衆を前にしてもその態度は覆ることがなかった。
六年前の吉良醒時も鮮烈な印象を音大生に残した。舞台の上で挑むようにピアノに立ち向かう彼からは威厳を越えてカリスマ性すら感じさせた。日本人史上初のショパンコンクール優勝者。斬れる刃物を彷彿とさせる鋭い美貌。世界に名を轟かすピアニストは、本来ならば一大学がおいそれと呼べる存在ではなかったが、妹が通っている大学ならば話は別だった。
大学の創立記念演奏会で、特別出演として一曲弾いた。それだけで十分――いや、やり過ぎだった。長身痩躯から放たれるエネルギーと紡がれる旋律は数百名の音大生を悠に圧倒し、なけなしの自尊心を叩き潰した。
格が違う。夢想することさえ愚かしい。努力では到底埋められない差があることを突きつけられた音楽家の卵達は孵る前に自ら身を砕いた。
「創立記念演奏会で演奏家個人のインタビュー。本末の目的を著しく見失った行為に正直舞台から降りたくなった。ましてや時間が余っているからと聴衆に質問を求めるなんぞ愚の骨頂だ。突然質問しろと言われても名乗りを挙げる者はいなかろうと、そう思っていた」
何か質問したい人はいませんか。
司会者は救いを求めるように学生たちに言った。世界的有名なピアニストとの対面なんてもう二度とない。千載一遇のチャンスを生かそうとする気概は素晴らしいが、いかんせん打ちひしがれていた音大生達には手を挙げる気力はなかった。あの眼差しを向けられただけで委縮してしまう他ない。あまりにも惨めで。自分が途方もなく小さな存在に思えて。
しかし、そんな惨めさにも慣れていた涼は構わず手を挙げた。
――努力は才能を凌駕するのでしょうか?
演奏直後の質問にしては挑発的だったと今では思う。
――音楽に限らず芸術は感性が重視されます。歴代の音楽家達は口をそろえて技術だけでは不十分だと言います。では、その技術以外のものを得るためには才能や感性に頼る他ないのでしょうか。
場内が白けたのを肌で感じた。おまえ、今の演奏を聴いていなかったのか。何も感じていなかったのか。周りから嘲笑すら漏れた。あれだけ圧倒的な差を見せつけられて、なおも努力だのと謳う学生の無知さに呆れていた。
――仮に、技術以外のものを才能と呼ぶのなら、
インタビューにも必要最低限のことしか答えなかった吉良醒時が、至極真面目な顔で口を開いた。
――欧米では生まれつきの才能を『賜物』と呼ぶ。己の力で得たのではなく、神から与えられたものとして扱う。故に彼らは神を信じ、敬い、感謝し、祈り、神から恵まれた才能を生かして報いようとする。彼らの努力とはつまり、神によって賜ったものをいかに増やすかに始終する。
神。祈り。自他共に認める現実主義者にして実力主義者の吉良醒時には似つかわしくない単語に、聴衆の笑い声は止んだ。
――オレの演奏は才能によるものなのか、それとも努力によるものなのかは、オレにもわからん。ただ、これだけは言える。努力を惜しむ者は音楽家に相応しくない。才能に過信する者もまた、音楽家には相応しくない。祈りや神、人知を超えた存在を笑う者に音楽家は務まらない。
大胆な発言の返答は痛いくらいの沈黙だった。しかし、吉良醒時は臆することもなく聴衆に向かって語った。
――技術や努力でまかなえる範囲は人間の領域だ。人間が持ちうる情熱と力の全てを尽くした先にこそ、人間の英知を越えた領域がある。才能の領域がある。故に、全てが己の力によるものだと過信する者はそれ以上の発展は望めない。そして努力を惜しむ者は才能について心配する必要はない。その域に達することがないのだからな。
唖然とした音大生を放置して、吉良醒時は悠然と舞台から降りた。
涼が教師資格課程に進んだのはその直後だった。
「オレが引導を渡したのか?」
涼は首を横に振った。音楽家になれるとは最初から思っていなかった。借りた奨学金の返済義務が免除されるのは教師職だ。涼には初めから教師になる道しかなかった。
「逆に安心しましたよ。私は努力でどうにかなる範囲で生きていけばいいと思いましたから。人間の力の及ばない領域なんて、怖くて踏み込めやしない」
そうか。醒時は安堵とも諦観ともつかない呟きを漏らした。仮に涼が自分の言動のせいで音楽を極める道を諦めたとしても、このピアニストは悔いたりはしないのだろう。他人の助言や命令など選択肢の一つに過ぎない。諦めるのも才能を信じて突き進むのも、決めるのは自分だ。
「貴様が踏み留まりたい領域は『人間の力』ではなく『自分の力』ではないのか?」
涼には言葉の違いがわからなかった。無難に「どうでしょうね」とはぐらかし、紅茶を一口飲んだ。
「吉良さんは、怖くなったりしたことはないんですか?」
「ない」
即答だ。さすが鬼才ピアニスト。自分の力を信じ続けることもまた一つの才能だと涼は思った。自分には到底持ちえないものだ。
「人間の英知を越えた領域と言ったがな。オレにもその境界線がどこにあるのかは今でもわからん。そもそもどこまでが努力で、どこからが才能の域なのか、見極める必要はない。音楽家はただ、己の持ちうる情熱と力をたった一瞬の表舞台に注ぐだけだ」