【番外編】恋せよ長男、したたかに(転)
天下はしばらく無言で一の顔を見つめていた。張り合うかのように一は睨み返す。うららかな土曜の昼下がり。庭先で洗濯物を取り込む兄と受験生の弟が拮抗状態。なんとも間の抜けた図式に気づいたのは、天下に自分の体操着を差し出された時だった。
「ん」
戸惑う一に洗濯物を押し付ける天下。一が受け取ると、何事もなかったかのように背を向けた。取り込みを再開した兄に一はますます苛立ちを募らせた。
三年経とうと兄は変わらない。無関心で無神経だ。出来の悪い弟が何を考えようがどうでもいいと思っている。今だって馬鹿な弟の癇癪に付き合う暇はない、と言わんばかりの態度だった。
ソファーに体操着を放り投げて、部屋に戻ろうとする一に「おい」と声が掛けられる。
「まだ途中だろうが」
胡座をかいてそばに座るよう促す。手伝えと言いたいらしい。一は足音を響かせて戻り、どっかりと床に腰をおろした。洗濯物の山からバスタオルを引き抜いて適当に四つ折りにする。すかさず頭を小突かれた。
「洗面所行って見て来い。三つ折り、だ」
盛大な舌打ちをしてたたみ直す一に、天下は次々と洗濯物を寄越した。
Tシャツのたたみ方一つでも天下の指導が入る。やれ「お前それでも中学生か」だの「毎日タンス開ける時何見てんだ」等々ありがたい小言付きで。おまけに制服のシャツを手にどうしたものかと首を捻っていたら「お前が伸ばした程度で皺が取れるわけねえだろ。アイロンだ。あとでまとめてかける」と取り上げられた。
「なんで俺が」
「てめえの服ぐらいてめえで片付けろ」
ごもっとも。結局、一が自分の洗濯物と格闘している間に天下は他四人分のを手際良く片付けた。母とはいえ女性の下着でさえさっさとたたんで分別してしまう天下に「お前本当に男か」と非常に失礼な質問が飛び出そうになる。一は押し黙ってひたすら手を動かした。
「大の男が一人増えたんだ。窮屈になるのは当たり前だろ」
突然なんだ、と口を開きかけて一は「ウザい」と言ったついさっきの自分を思い出した。
「部屋の契約、今年の三月までだったんだよ。更新する手もあったんだが、大学はこっちからの方が近いし、これからのことを考えたら無駄に金を使うわけにもいかねえからなー……」
「なんだよ、それ」一は眉を吊り上げた「まるで俺達のせいみたいじゃねーか」
「いや、家の金じゃなくて俺の金の話だから」
大学を卒業したら家を出てく、と天下は今晩の献立かのごとくあっさりと言った。
「今度は親父の金じゃなくて、自分でどーにかやるつもりだ。資金を貯めるために下宿させていただいているってわけだ」
つまり、家事を率先してやっているのはご機嫌取りではなく、せめてもの宿代のつもりだったのか。一人部屋を固辞しなかったのも「住まわせてもらっている」という認識からくるものか。
一は頬に熱が集まるのを感じた。自分が考えていたことの方がよっぽど陳腐だった。
去年から急に始まった土曜のみの実家帰宅、連休の泊まりとずるずると元の鞘に収まるつもりだと決めつけていた。そのお手軽さを憎んでいた。三年も気ままな一人暮らしをしておきながら――俺を置いて出て行ったくせに、何事もなかったかのように戻ってきた兄が許せなかった。
「それ、親父は知ってんのか?」
「大学受験前に二人には話して許可はもらった。四年は相部屋になるから統にも一応」
なんだそりゃ。一は言葉もなかった。自分の知らない所で決められているのもそうだが、何よりも目の前の男が兄であることが信じ難かった。
住まわせてもらっている。許可は得ている。それではまるで──他人みたいではないか。
突然戻ってきた長男が疎ましかった。親に文句一つ言わない偽善者ぶりが腹立たしかった。変わらず優等生で『いい息子』でいるのが妬ましかった。自分が出来の悪い弟のようで、ますます惨めで。天下に、少しでも悪い点があればまだ良かったのに。
家族面して戻ってきたのを許せないくせに、いざ突き放されると寂しさを覚える。矛盾した感情が自己主張を始めてわけがわからなくなった。
「……俺、は?」
ようやく絞り出した声は情けないくらい掠れていた。
きっと三年前に天下が家を出て行った時から、変わっていないのだろう。勝手に決めて消えてしまった兄を関係ないと割り切った、そのつもりでいた弟。しかし本当は、家族の縁に一番縋っていたのは一自身だった。
だから、何も言わない兄や、その兄にばかり頼る両親を見ていると疎外感を覚えるのだろう。置いてきぼりにされた子供のように。
「お前は最後だ、最後」残酷なくらいあっさりと天下は答えた「当たり前だろ。俺、お前が中学卒業した後どうするつもりなのかすら知らねえんだから」
一は目を見開いた。全国三十四位でも、いくら考えてもわからないことはあるらしい。たかが四つ下の弟が思っていること。優等生の兄が、たかが愚弟の進路を気にしていたのか。
「勉強してるということは、進学するつもりではあるんだよな?」
「まあ、一応」
素っ気ない返答にも天下は気を悪くした様子もなく「どこの高校だ?」と興味津々で訊ねてきた。弟の性か兄の質問に素直に答えかけて──一は口を噤んだ。子供染みた意趣返し。出来の悪い弟にだってプライドはある。何でもかんでもぺらぺら喋ると思ったら大間違いだ。優秀な兄よ、せいぜい考えるといい!
一は肩を竦めて、わざとらしく首を傾げた。
「……さあ?」
自分でもわかるくらい意地の悪い笑みを浮かべて。
家の掃除も終えて、一息ついたところで天下は外出すると言った。
「早くねえか。四時だろ?」
現在時刻は午後の二時。新宿駅には三十分もあれば余裕で着く。一の指摘に、天下は小さめのショルダーバッグを持ち上げる腕を止めて、振り返った。
「……なんだよ?」
「いや」
天下は肩にバッグの手ひもを掛けた。
「デートに遅刻するわけにはいかねえだろ」
「は?」
「付き合ってから初めてなんだよ。お互い新学期で忙しかったから。以前、俺がドタキャンしかけたせいで観損ねたやつのリベンジで、向こうも楽しみにしてる……と、思う。そう信じたい」
一は絶句した。兄が交際している。大学生なのだから当然と言えば当然なのだが、こんなに子供っぽいことを言い出すとは思わなんだ。女性と付き合うにしても、もっと余裕を持って付き合うとばかり思っていた。学業の片手間に習い事をするのと同じように。
それが実際はどうだろう。淡々というよりは半ば自棄気味に暴露する天下は、歳相応に見えた。しかも微妙に卑屈で、必死だ。何でもそつなくこなす優秀な兄に似つかわしくない。
「だ、誰? 高校の同級生? それとも大学?」
天下は少し考えてから、底意地の悪い笑みを浮かべた。
「……さあ?」
茫然と立ち竦む一を置き去りにして、天下は家を出て行った。思いついたかのように振り返り「風呂、掃除しとけよ」と指令を下すのも忘れなかった。優等生はどこまでも優等生だった。