【番外編】恋せよ長男、したたかに(承)
よく晴れた土曜の昼だった。
父は出勤、母は友人と外出、次男の統は部活。家にいるのは期末試験を控えた中三の自分と、今年大学生になった兄──天下だけだった。今日はバイトもなく、夕方に友人と会う約束らしい。朝から気配を感じながらも顔を合わせていない。口も利いていなかった。にもかかわらず居心地の悪さを覚えるのはどういうことか。
一は先ほどから全く進んでいない英語の問題集を閉じた。
三兄弟で一人部屋なのは末っ子の自分だけ。次男である統の部屋は、春から長男の天下との相部屋になった。元は天下の部屋だったのを統が使っていたのだから流れとしてはそう不自然ではない──はずなのだが、末っ子だけが一人部屋というのは順当ではないような気がした。
自分に遠慮でもしているつもりなのか、それとも一人部屋なんぞどうでもいいのか。
不平不満を言うわけでもなく、あっさりと相部屋に収まった天下の物分りの良さが、一は気に食わなかった。
三年の間に忘れていたが、兄はいつもこうだった。
なんでもそつなくこなす。手のかからない、絵に描いたような優等生。ご近所でも評判だった。国立大学の法学部合格が決まった時も「やっぱり天下君ね」と感心されていた。
しかし、当の本人は涼しい顔で少年漫画を読んだり普通にゲームしたりしているのだ。まるで『自分は平凡な高校生です』とアピールするかのように。いけ好かない。
両親自慢の長男の弱味でも握ってやろうと留守の間に部屋を漁ってもみたこともあった。が、大した収穫はなかった。机の上にあるのは参考書。何故か初心者向けのオペラガイドブック──大学で欧米文化でも学んでいるのだろう。勉強熱心なことで。
期待高まるベッドの下にあったのは赤本と音楽雑誌。どういうわけか三大テノールの特集ページが折り曲げられていた。
なんでこんなもんを天下が持っていてしかも隠しているのか、一には全く理解できなかった。グラビア誌でもあればまだ親近感を抱けるというのに。
さて、そんな対長男限定絶賛反抗期中の鬼島一が麦茶でも飲もうかと足を運んだ台所で、見覚えのあるスマホが放置されているのを発見した。
透明カバーで本体は黒一色。シンプルなスマホは持ち主の気質を如実に表しているようだった。近所のコンビニでも行っているのか、天下はいない。
良心が咎めることもなく一はスマホを手に取った。
さしあたってはメールの送信履歴を見てみる。大学関係のものが大半だった。LINEも起動させたが「真山亮介」といった友人とのやり取り。内容はごくごく普通のものだった。つまらない。盗み見ておいてふてぶてしいが、危険を冒した甲斐のある極秘情報の一つくらいはあってほしかった。
早々に一は興味を失い、スマホをカウンターに戻そうとした。
今朝送ったばかりのメールに目が止まったのは、その時だった。
内容は今日の待ち合わせの確認。「予定通り新宿で四時」と簡潔なものだった。変哲のないメールに意識が向いたのは宛先に「リョウ」とだけ表示されていたからだ。家族だろうと友人だろうとアドレス帳には全てフルネームで登録されている中、一つだけカタカナのあだ名は目を引いた。
だが、送受信履歴を見ても大したやりとりはしていない。非常に事務的で必要最低限の連絡しか取り合っていないようだ。大学関係とみた。とにかくドライだった。しかしそのドライな関係の相手と会うために兄は今日、わざわざ時間を作ったのだ。
(誰だよリョウって)
一の疑問に答えてくれる者はないまま時間切れ。玄関のドアが開く音に、慌ててスマホを元の場所に戻した。
コンビニにかと思いきや、天下が行っていたのはスーパーだった。用済みになった特売のチラシを丸めてゴミ箱に捨て、エコバッグから卵やら白菜やら色々出しては冷蔵庫にしまった。一には目もくれずに。
一はソファーに寝そべり自分のスマホをいじくりつつ、密かに長男の動向を探った。次に天下が向かったのはソファー──を横切り、庭。今朝、母が干した洗濯物を片っ端から取り込んでいく。
嫌な顔を一つせずに淡々と家事をこなす兄。土曜の昼に寝そべっている弟。誰がどう見ても優等生な天下の姿に、一は吐き気を覚えた。
「なあ」
自分から兄に声を掛けたのは三年ぶりかもしれない。天下は洗濯バサミをカゴに放り投げてから振り返った。
「お前さあ、何しに戻ってきたんだ」
苛立ちに任せて一は悪態をついた。
「空気読めよ。今さら家族面して帰ってきて……ウザがられてんのがわかんねえのかよ?」