【番外編】恋せよ長男、したたかに(起)
活動報告にて予告させていただきました通り「はじめてのデート」の話です。主人公が誰だろうと舞台がどこだろうと、これはデートの日の話なんだと主張致します。どんなに酷い出来でも許せるお心の広い方のみ自己責任でお読みくださいませ。
鬼島一にとって兄の天下は家族で最も遠い存在だった。
そもそも三兄弟の長男と三男で歳も四つ離れているし、親に叱られる度に出てくる「お兄ちゃんを見習いなさい」はもはやトラウマ以外の何物でもない。幼い頃から三男は鬼島家の問題児だった。そして長男は自慢の息子だった。そのせいか一は器用すぎる天下よりも不器用で無口な統を慕っていた。
それぞれ性格の違う三兄弟の思い出で唯一鮮明なのは、一が小学生四年生の時の「一斉パンク事件」だ。
当時、小学六年生だった次男・統の自転車が塾へ乗っていく度に釘を打たれたりと嫌がらせを受けていたことから端を発した事件だった。本人は今と同じように大人しい、というより考えを表に出さないので、嫌がらせはますますエスカレート。筆記用具を隠されたり鞄に落書きだの、金を払ってまで嫌がらせに来てんのかと問い質したくなるような陰湿で悪質な悪戯が繰り返された。
同じ塾に通う一はいち早く兄の異変に気付いた。無論、その原因も。まわりは見て見ぬふりをしているが、統は間違いなく「いじめ」を受けていた。鬼島統の自転車だけが毎回空気が抜けているなんて偶然があるか。馬鹿でもわかることを、塾のクラスメイトは誰一人として認めようとはしなかった。講師ですらも、だ。
そうくれば短絡的な小学生だ。目には目を、歯には歯を。嫌がらせには嫌がらせを。相手は年上で複数いる。腕力では実行犯連中には敵わないかもしれないが、陰でこっそり復讐をすればいい。誰も助けてくれないのなら自分が兄の味方をするしかない。
ほんの少し遅刻して、一はいじめの主犯格連中が勉強に勤しんでいる間にそいつらの自転車に釘を打ち込んでやった。三台分。思いの外力を入れなくてはならないので手が真っ黒になったが、その汚れもまた小学生には誇らしかったのを今でも覚えている。
そして授業が終わって帰路につこうとした時、誰もかれも──一ですら、驚いた。
駐輪場に停めていた六年生の自転車が軒並み同じ釘で打たれてパンクしていたのだ。統のも、そして何故か一のも。駐輪場は学年ごとにスペースが決められていたので、奥から次々と刺していったのだと考えられるが、四年生である一の自転車までもがパンクさせられている理由がわからなった。一は六年生以外では唯一のパンク被害者だった。
結局、悪質な悪戯と判断されて「一斉パンク事件」は迷宮入りとなった。誰も内部犯だとは思わなかった。被害台数が三十近くあったこともあり、複数犯という説さえ浮上する始末。まさか内三台は自分ですと言い出せるはずもなく、一は黙っていた。
疑われこそしなかったが、統も一も空気の抜けた自転車を押して帰る羽目になった。両親に言われたのだろう、帰路の途中で迎えに来た長男の天下と合流した。姑息に自分のやった三台は隠して今日の奇妙な出来事を報告した一にしかし、天下は「そうか」とあまり興味がなさそうに言った。
他人事な長男に腹を立てた一が噛みつこうとしたその時だった。
視界に飛び込んだ天下の左手。利き手ではない方の手の指が黒く汚れていたのを一は目撃した。たった三台とはいえ自転車をパンクさせた一だからわかることだった。鍵がかかっていても、多少は回ってしまうタイヤを押さえないと釘は打てない。釘を刺すのは利き手。ならばタイヤを押さえるのはもう片方の手。そして街中を所構わず走りまわるタイヤに触れた手は──
思わず兄の顔と指をまじまじと凝視する弟に、天下は片頬を歪めて笑ってみせた。見透かしたように不敵に。共犯者であることを示すかのように皮肉げに。
その数ヶ月後だった。母が交通事故に遭ったのは。
母の記憶喪失をきっかけに天下は鬼島家を出て一人暮らしを始めている。当時小学生だった一は母と入れ違いにいなくなった兄を寂しく思うと同時に、投げ出した身勝手さを恨んでもいた。
しかし、それも月日の経過と共に薄れていった。
何しろ母の中では鬼島家は四人家族。天下の存在はどこにもない。当然話題にのぼるはずもなく、おまけに天下は家を離れる際に自分の痕跡というものを全く残さなかった。見事な手際だった。見切りをつけた兄も、何事もなかったように取り繕う父も。
一にとって天下が年に一度会う従兄弟よりも遠い存在になるのは必然と言えよう。
長男が全国模試で三十四位だろうと国立大学に進学しようと誰と色恋沙汰になろうと三男には関係ないし、興味もない。たとえ別居から三年後にひょっこり兄が実家に帰ってきて住み着いたとしても、だ。