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放課後(その一)けっこう単純なんです

 国際電話だろうとなんのその。時差は考え費用は全く考慮せずに恭一郎は、涼に電話してきた。一体どんな急用かと思いきや、なんのことはない、涼の近況を探るためだった。どうやら礼の一件での恩を盾に天下が涼につきまとっていやしないかと、気が気でないらしい。

「あんたは私の父親か」

『心配だ。君はころっと流されるから』

 コンクールを来週に控えているはずの神崎恭一郎は深刻そうに呻いた。

『やっぱり七光の方に頼むべきだったか……いや、あいつは壊滅的に気が利かなさ過ぎる』

「事と次第では琴音にまで言うつもりだったあんたの気の利かなさを、どうにかするべきだと私は思うけどね」

『ああ駄目だ。果てしなく不安だ』

「受かるか落ちるかのどっちかしかないから、大丈夫だよ」

『コンクールのことじゃない。君のことだ』

 振りでもいいから心配しろよ、コンクール。自信があるのか単なる阿呆なのか、涼には判別がつかなかった。

『僕だって、いい歳して妹の恋愛に口出しするようなシスコンにはなりたくない。しかし、だ。久しぶりに訪れた妹の部屋で見知らぬ、しかも明らかに男物のマグカップを発見してしまえば心配になるのも仕方ないと思わないか?』

「……マグカップ?」

 涼は自分の声が一段と低くなるのを感じた。

『とぼけても無駄だよ。いくら巧妙に戸棚の奥に隠されていようと、あの黒いマグカップは一昨年帰国した時にはなかった。まさか部屋にマイカップを置くほどの関係に発展していたなんて』

 あれか。涼は台所の戸棚を見上げた。本人よりも厄介な奴に見つけられてしまったものだ。運が悪い。学校に置いておくわけにはいかなかったので、やむなく持ち帰っただけだというのに。

「大丈夫だよ。顔も合わせなくなったし」

 最後に会ったのは二学期の終わり頃、それも挨拶程度で終わった。

 三学期に入ったら、三年生はほとんど学校へは来なくなる。天下も例に漏れず、大学受験に向けて猛勉強中。たかが音楽教師に構っている暇などない。

 それでいいと、涼は思った。

 誰かと特別な関係を築くのは、不可能ではなかった。でもすごく難しいことだった。自分にとっても、そして相手にとってもそうだろう。努力を強いることはできなかった。だって、望んでいる自分自身が耐えられないかもしれないのに。

「関わらなければ薄れていくだけだよ。すごく楽で簡単だ」

『カルメン』の時もそうだった。謂われのない誹謗中傷にも恭一郎はきっと黙って耐えただろう。傷を押し隠して、涼には何も言わずに。

『あのねえ、涼』

 恭一郎は呆れ口調だった。

『彼に関してはともかくとして、君は僕の妹じゃないか。お兄さんに向かって「私と一緒に傷ついてください」くらい言ってみたらどうなんだ』

 言えたら苦労しない。自分のことを棚に上げて踏み込んでくるように要求する恭一郎が理不尽に思えた。どうして自分ばかりが。

「うるさい。余計なお世話だ」

『そうやって子供みたいなことを言うから、僕の保護者気分が抜けないんだよ』

「兄さんなんか大嫌い」

 歩み寄るのならば、片方だけでなく互いにするべきだ。

『……え』

 向こうの電話口で恭一郎が息を呑んだのが、聞こえた。

『涼、今……あの、もう一度言ってくれないか』

「大嫌い」

『いや、そこじゃなくて、その前』

 覚えていられるか、そこまで。涼は記憶を探った。兄貴風を吹かせて無茶を言う恭一郎に反発を覚えた。しかし反論の言葉に詰まった自分は癇癪に近い反撃に出た。いつものことだった。歳に似合わない幼い駄々は涼なりの甘えだ。恭一郎ならば笑って赦して、流してくれることを知っていた。

「にい──…………」

 口にしかけて、涼は我に返った。何故今更。二十歳も過ぎて、国をも隔てたこの状況で。気の緩みとしか言いようがなかった。

「……にい、さん」

 天下一人のせいにはすまい。しかし一因を担っているのは否めなかった。彼に逢ってから自分はどこかがおかしくなった。少しずつ、積み重なるように。だから自分でも気づかなかった。

 相変わらず独唱は好きだが、合唱がもっと好きになった。親がいないことを素直に悲しいと思うようになった。他人の想いをはねのけるのではなく、受け止めたくなった。他人の目よりも自分がどうしたいかと考えるようになった。つまりは弱くて身勝手で馬鹿になった。

『なんだい妹よ』

 冗談めいた返答の後、電話の先が沈黙した。涼が「神崎?」と呼びかけても応答がない。大丈夫か、本当に。一抹の不安を覚えた頃にようやく、恭一郎は『駄目かもしれない』と言い出した。

『どうしよう』恭一郎はくぐもった、蚊の鳴くような小さな声で言った『彼女にプロポーズOKされた時よりも嬉しい』

 いや、それはさすがにマズいだろ。涼は声に出して笑った。

『今度の休暇は二人で帰るよ。改めて挨拶したいって』

「私に?」

『君の義理の姉になるからには当然だってさ。姪だか甥を生んだあかつきには、ぜひ面倒を見てほしいって』

 家族増えるよ。

 嬉しそうに言ってくれる恭一郎が、涼には嬉しかった。


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