(その八)屋烏でさえも愛しいのです。
「なあ」
躊躇いがちに天下は口を開いた。
「それ、やめにしねえか?」
何を。涼は目をしばたいた。それすらも気に障るのか、天下は眉を顰めた。
「あんた、俺じゃ絶対わかんねえって思ってんだろ。両親がいて、兄弟もいて、今まで不自由なく生きてきたような奴には、自分のことなんか理解できるはずがないって、突き放してる」
「そんなこと」
「思ってるよ。別に責める気はねえ。ポッと出の俺が、したり顔で首突っ込んできたら堪んねえよな。ふざけんな。てめえなんかに何がわかるって思うのも当然だ」
ゆらゆらと揺れるコーヒーの面に涼は視線を落とした。突き放している自覚はないが、境界線を引いているのは否めない。諦めラインとも言えるものが自分の中には確かにあった。
多くを求めることができない。人の理解というのもその一つだ。他人の厚意に委ねることが涼にはどうしても難しかった。
「でも理解してえんだ」
天下は呟いた。ため息混じりの掠れた声だった。
「神崎さんやあんたを育ててくれた人みたいに、時間を掛けてでも積み重ねたいんだ。できないかもしれないってだけで諦めたくねえんだ」
不意に、涼は彼女と話したことを思い出した。
彼女はたしか出張前夜、そして自分は定期演奏会を数日後に控えていた。お酒を片手にほろ酔い気分。取り立てて変化のない、いつも通りの会話だった。大学のことを訊ねられ、少しずつ語っている内に熱が入る。そして途中でようやく、彼女が置いてきぼりになっていることに涼は気付く。ゲネプロだのリリコ・ソプラノだの、彼女にわかるはずがなかった。
気まずくなり謝った。彼女は苦笑して「やっぱり難しいわ、オペラって」と言った。いつもと変わらなかった。彼女は音楽に関しては無知で興味もないと涼は諦めていた。押し付けることはできない。どんなに涼が寂しさを覚えていても、彼女に理解を求めることはできなかった。
しかし、匙を投げたような言葉の裏で、彼女の出張鞄の中には定期演奏会のチケットがあったのだ。
──彼女は諦めてなどいなかった。
数え切れないほどの後悔の中で、たった一つだけ取り戻せるとしたら。
あの日、彼女が演奏会にこっそりやってこようとするのを止める──のではなく、涼自ら彼女を招きたかった。たとえ果たされないとしても、彼女が当たり前のように差し出してくれた手を握りたかった。もっと知ってほしいとワガママを言いたかった。ただ与えられるものを受け止めるだけではなく、自分から手を伸ばして求めたかった。
「名前、教えてくれないか」
天下は緩やかに微笑んだ。
「大切な人なんだろ?」
頷いた顔が上げられない。視界が揺らぐ。胸の奥底にあるものがじわじわと滲み出てくる感覚に、涼は目を閉じた。
「すごく」
大切だった。今も、これからも。
血の繋がりが全くなくて、葬式にも呼んでくれなくて、嘘つきで、勝手に死んだ彼女が好きだった。本当に好きだった。
「……はるか」
絞り出した声は自分でもわかるくらい掠れた声だった。
「神崎遙香」
涼は目を開いた。ほんの少し驚いた表情を浮かべる天下が映る。それもそうだ。あれだけ振り回されても見捨てなかった理由にしては、あまりにもお粗末だ。
「馬鹿だよなあ。同じ名前なんていくらでもあるのに」
でも捨て切れなかった。思い出す度に痛みを伴うとしても、どれだけ傷つこうとも、誰にも理解されないとしても。
赤の他人である自分を信じ、最後まで投げ出さなかった彼女を捨て去ることだけは、どうしてもできなかった。