(その七)焦る必要はありません
長い沈黙の後、千夏がどう答えたのかはわからなかった。涼が聞いたのは椅子を引く音。そして立ち去る千夏の後ろ姿を見ただけだ。思っていたほど大きな背ではなかった。そもそも、何を根拠に大きいと思っていたのだろう。
千夏がいなくなってしばらく経っても、涼はぼんやりとしていた。自分を置き去りにして解決してしまったような気がした。いや、実際に何かが改善されたわけではない。今でも千夏に対する軽蔑は消えないし、和解する気にもならない。でも、恨むことはもうないだろう。
自分の弱い部分を掴まれている以上、恐怖はある。どうしても。しかし、きっと向き合えると涼は思った。尻尾を巻いて逃げ出すことはなくなるだろう。自分にだって、譲れないものがある。
二十四年も経ってようやく、涼はただの被害者でなくなることができた。
「隣、いいか」
涼の返答を待たずして、天下は椅子に腰掛けた。
「いつから」
「こっちの台詞だ。すっげー驚いた。まさか全部聞いてたのか?」
「違う」
訊ね方が悪かったと涼は反省した。
「いつから知ってた」
何を、とまで言う必要はなかった。天下は持ってきたコーヒーを一口飲んだ。
「ついさっき」
「神崎から聞いたんじゃないのか」
「半分はな。パズルみてえなもんだ。あれこれ組み合わせれば輪郭ぐらいはわかる」
天下は指折り挙げた。
「文化祭の時は明らかに挙動不審だったし、神崎さんのことは一応説明したのに、直樹に関しては全く触れようとしないのも違和感がある。考えれば、家族でもなけりゃあんたが黙っているはずないもんな。親戚だとか、友人の息子だとか適当に親しい理由はつけられるのにそうしなかったのは、嘘でも言えなかったからだろ?」
口裏を合わせようにも直樹が知らなければ、頼めるはずもない。何よりも、涼ができなかった。彼は弟だった。『ような』とか『みたいなもの』が後ろにつかない、正真正銘の弟だ。半分だけど血の繋がった姉弟だ。
「君の出る幕じゃなかったよ」
「先生が出る幕でもなかったと思うがな」
だから引っ込むつもりだった。天下が現れなければ、涼はきっと千夏を置いて逃げ帰っただろう。
「俺がしゃしゃり出たくらいで解決するもんじゃねえ。仕切り直しだ。気が向いた時に電話でもしてやれよ」
それこそ余計なお世話だ。口を開きかけた涼の前に、天下は名刺を差し出した。個人ケータイの番号とアドレス。
「ヴァイオリン教えてるらしい。好きにしろよ。気に入らねえなら、くずかごに捨てるなり焼くなりすりゃあいい。とりあえず持ってても損はしねえだろ」
涼は『上原千夏』と書かれた名刺を穴が開くほど凝視した。断ち切られて二度と繋がらないと思っていたが、案外簡単なのかもしれない。明日か一週間後か、それとも何年後か。いつかけられるのかもわからない電話を待つ千夏はさぞかし気を揉むことだろう。自分がそうだっただけに、涼は笑うことができた。
「そういえば、今日のチケットはどこで?」
質問に他意はなかった。しかし天下は眉をしかめた。
「もらった」
「誰に」
天下は観念したように肩を竦ませた。
「……あんたの兄さん」
涼は脱力した。あのお節介。心配はさせまいと抱え込んでいた自分が馬鹿みたいじゃないか。本番目前に他人を心配する暇があったら舞台に集中しろ。だから大成できないんだ。
「心配性なんだから。昔と全然変わってない」
「昔から、そうなんか」
涼は頷いた。
「中学生の時なんか、私の試験勉強に付き合って、自分は英語で赤点取ったくらいだ。二人揃って怒られたから覚えてる」
「へえ、先生まで?」
「神崎は私を言い訳に勉強しなかったから。私は神崎に勉強をさせなかった監督不行き届きとやらで。無茶を言う人だよ」
思えば、あれは恭一郎を懲らしめるために涼を叱ったのだろう。ただ恭一郎本人を責めるだけでは、自己犠牲という綺麗な言葉で片付ける恐れがあった。卑怯な言い訳をさせないために彼女はあえて二人同時に説教した。曲がったことを許さない人だった。
「仲、いいんだな」
何気ない天下の一言に涼は我に返った。
「……まあ、幼なじみだから」
「兄妹だろ」
「正確には、兄妹『みたいなもの』だ」
言い訳めいていたが、涼は弁明せずにはいられなかった。
「血も繋がっていないのに、家族だなんて。変だってわかってる」