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   (その六)もう一度拾い上げてほしいのです

 コーナーと言うものの、それなりの席数はあった。演奏会を終えてくつろぐ人々の中に混ざって、窓際のテーブル席で向かい合う天下と千夏。会話の内容は全くわからない。なんで天下が脈絡もなく現れたのかもわからない。なんで二人で仲良く喫茶コーナーなんぞで茶をしばいているかもわからない。わからないことだらけだ。

 涼は喫茶コーナーの前を二、三回行き来し、覚悟を決めて入店した。無論、こっそりと。二人が座るテーブル席を大周りで避けて通り、天下の死角となる斜め後ろのカウンター席に座る。二人の表情も見えるし、意識を集中させれば会話の内容もつつぬけだった。

 千夏と話す天下は高校とは思えないくらい丁寧な物腰だった。それを事務的と涼が感じてしまうのは、きっと彼の素を知っているからだ。敬語も普段の似非優等生面も全ては相手と一線を引くためのものであって、それ以上の意味を持たない。

「──それは、どういう意味でしょうか?」

 千夏が訝しげに訊ねる。

「二十数年前のことを蒸し返すつもりなんて、先生にはありません。誰もあなたの過去を暴いて責めたりはしない。安心して帰ってください。そして二度と、あなたからは先生に関わらないでほしいんです」

 天下は言葉を選んでいるようだった。しかしそんなことよりも、衝撃のあまり涼は声が出なかった。何故天下が自分と千夏の関係を知っている。まさか、恭一郎が喋ったのだろうか。涼の動揺を余所に千夏は顔を歪めた。

「私は、そんなつもりでここに来たわけでは……っ」

 じゃあどういうつもりだ。涼は冷ややかな目で千夏を見た。存在しないはずの娘に今更会って親睦を深めるつもりとは到底思えなかった。

「どういうつもりでここにいらっしゃったのかは存じませんが、こんなやり方はフェアではないと思います。会いたいのなら面と向かってそう言えばいい。人目を避けてこそこそと会うのはお互いに気詰まりでしょう」

 涼の心情を代弁したかのような台詞だった。が、天下の口調はやはり柔らかい。そのことにさえ涼は腹が立った。人の気も知らないで、何を偉そうに。その女は最初から無責任で卑怯だ。自分の都合で捨てておきながら、今更勝手に現れて、これまで必死に積み上げてきたものをかき乱している。

 俯き加減の千夏は探るように天下を見た。

「涼さんが、あなたにここに来るよう頼んだのですか?」

 一瞬、何を言っているのか涼は理解できなかった。天下も同じだったらしく、軽く目を見開く。それを図星を突かれた動揺と受け取ったのか、千夏は責めるように言葉を重ねた。

「私に、そう伝えるように言われたんですね。だから、こんな……」

 千夏が天下に向ける眼差しに非難と軽蔑が含まれているのを見てようやく、先ほどの言葉の意味することが頭に染み入る。瞬間、涼は場所を忘れて席を立ちそうになった。目も眩む怒りに色が白くなるほど手を握り締める。

 違う。激怒なんて一時的な感情ではない。これは、憎悪だ。悪意もなく、無造作に他人を踏みにじる千夏の存在が赦せなかった。

 この女は、天下を侮辱したのだ。

 生徒を盾に使う教師と、その言い分を押し付ける生徒として見ている。二対一で責める卑怯者として。生徒と教師でありながら深い関係にあると。自分のみならず、天下まで。まるで穢らわしいものを見るかのように──ふざけるな。ふざけるな。二十四年前、お前は私に何をした!? 高校生で無責任に子供を生んだ自分には、非がないとでも言いたいのか。

「違います」

 いきり立った涼とは対照的に、当の本人は穏やかだった。

「最初に申し上げた通り、先生は、俺がここにいることすら知りません。全て、俺が、勝手にやったことです」

「ますます、おかしいではありませんか。ただの教師の個人的な問題に生徒が、その……口を出すなんて」

「無関係なのはお互い様でしょう? あなたは直樹に真実を知られるのが恐くて先生を呼び出したのですから。でも何を知り、何に目を瞑るのかを決めるのは本人であるべきです。あなたが決めることではないと思います」

「ずいぶん酷いことを言いますね」

 関係ないくせに。天下を非難しつつも千夏の薄い唇は震えていた。

「酷い女だとお思いでしょうけど、これでも私は母親です。腹を痛めて生んだ我が子を捨てて、素知らぬ顔で生きてきたわけではありません。いずれは、息子にも涼さんのことは言うつもりです。しかし今は、複雑な年頃の息子にショックを与えたくはないのです」

 涼は前髪を握り潰した。顔を上げたくない。そんなことを平然と言う千夏を見たくなかった。見たら最後、一生赦せなくなる。それが怖かった。

 ショック。二十四年前に生まれた姉の存在は弟に悪影響を及ぼすのか。はからずも千夏は「渡辺涼は疎ましい存在である」と明言したのだ。自分で産んでおきながら、今更。

「正直に申し上げます。二十四年前、あなたがどんなつもりで涼を捨てたのかなんて、どうでもいいことなんです。その後罪の意識に苛まれ、どれほど苦しんできてきたのか、これからの上原一家はどうなるのかも、申し訳ないのですが、俺には全く興味がありません」

 涼は指の間から窺った。視界の中の天下は、首の後ろに手を当てて関節を鳴らしていた。優等生には似つかわしくない、粗暴な仕草だった。

「俺にとって重要なのは、二十四年前にあなたは産んだばかりの子供を手放したという事実。そして今また、その過去を消し去りたいがために先生を巻き込もうとしていること。ただ、それだけです」

 千夏の顔が強張った。その前に先ほどのウェイトレスがコーヒーを置く。横やりが入ったためか、厳しかった天下の双眸が緩む。軽く笑みさえ含めて天下は言った。

「先ほどの質問にお答えしますよ。どうして俺が──関係のない俺が、首を突っ込むのか」

 湯気立つコーヒーに目を落としたまま、天下は「好きなんです」と、小さく呟いた。

「ご心配なく。俺と先生はあなたが思うような関係ではありません。俺が、勝手に、慕っているだけです。非常に残念なことですが、先生は俺なんか相手にもしませんよ。真面目な人ですから」

 本当に、腹が立つくらい生真面目だと、天下は苦笑混じりに言った。

「立派な先生です。ひたむきで、厳しくて、優しい人です」

 真っ直ぐに千夏を見据えて断言。それはいつぞや、遙香と佐久間の件で涼までもが窮地に陥った時に見せた表情と酷似していた。一分の迷いもない。毅然とした態度だった。

「あなたに大切な家族がいるように、渡辺涼にも二十四年間で築いた大切なものがあります。だから、そんな簡単に隠されたり、否定されたくないんです。ましてやあなたの都合で無かったことにされるなんて真っ平です」

 ああそうか。涼はようやく気付いた。どうして天下を意識するようになってしまったのか。ただの憐憫や同情だけを抱いていたなら、きっと直樹に接する時と同じように穏やかな気持ちでいられただろうに。

「だから、帰ってください。あなたがバッグの中に入れているものを、先生に見せないでください。それはおそらく、彼女にとって一番の侮辱です」

 答えは簡単だった。三百万円で売ろうとした尊厳、教師としての矜持。涼自身が諦めて捨てようとしたものをすくいあげて、もう一度手に握らせる様が、彼女と同じだったからだ。


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