(その五)感動の再会には程遠いのです
行きたくない。行かなくては。行くべき。行こう。行け。やっぱ行かない。
脳内で活用形をもじったところで現状は変わらなかった。重い足取りで会場へ赴き、憂鬱な気持ちでチケットを出して、嫌々ながら指定席へ座る。二階席。眼下には一階席と舞台。身を乗り出せばもしかすると千夏の姿も見えるかもしれない。
(帰ろう)
涼は後ろ向きに決意を固めた。無理。絶対、無理。終わったらいの一番に会場を出て帰ろう。逃げと言いたければ言え。今更会ったところで一体何を話せというのだ。千夏は一体何をしたいのか。過去の過ちを詫び、清算するためなどといった殊勝な理由ではないことは確かだった。短い、用件だけを述べた手紙一通で、涼は千夏の意図を正確に汲み取った。
あの女には、仮にも自分が産んだ娘の事情を知る気など微塵もない。話をしたがるのは涼を息子の周辺から排除するため、こっそり会うのは平穏な家庭に波風を立てないためだ。会ったら申し訳なさそうな顔をして、自分の都合を押し付けてくるに違いない。
過去のことはもう忘れてほしい。もう二十年以上も前のことじゃないか。私だって捨てたくはなかった。家族に言われて仕方なく手放したのだ。際限のない言い訳を聞くのはたくさんだった。
何よりも怖いのは、侘びと称して金を渡されることだった。無論、受け取る気はさらさらないし、実際に札束を渡されようものなら突っ返すつもりでいる。しかし、六年前と同様に自分は思うのだろう。実の親にこんな金を差し出される自分は。
この人にとって、自分は一体何なのだろう。
大金を払ってまで排除したい存在なのか。では自分がまだ胎内にいた頃、千夏や父、そして周囲の家族はどんな思いでいたのだろう。周りの苦悩を余所にすくすくと成長する腹の子を疎み、あるいは呪ったのだろうか。ふてぶてしいと思ったのだろうか。いっそ、直樹に言ったように、いっそのこと本当に流れることを望んだのか。考えただけで堪らなくなった。
そんなに、赦されない存在なのだろうか。
(──やめよう)
千夏には会えない。どんな言葉を交わしても、致命傷を負うような気がしてならない。詫びられようが、金を渡されようが、いずれにせよ自分の人生は初めから間違っていたと、言われているようで、涼には耐え難かった。
恭一郎には申し訳ないが、どの曲も頭を素通りした。アンコールも終わり、最後の大拍手も止んで、本日のプログラムは全て終了したことを告げるアナウンスが流れる。それぞれ帰り支度を始める観客より一足先に、涼はホールを出た。
そのまま会場を後にしようとして、ふと足を止める。
踵を返して、ロビーの隅に腰かけた。ちょうど鑑賞植物の陰になる所で、パッと見には気づかれないであろう場所。自分でもわけがわからなかった。帰る前に千夏の顔を一目だけでも拝んでおこうという、この好奇心。自分を捨てた女がどんな面をさげてここまでのこのこやってきたのかを見てみたかった。
ほどなくして、ホール一階右手側の出口から、グレーのスーツを着た女性が現れた。髪を後ろで一つに結んでいた。どこにでもいる音楽愛好者だったが、見間違えようもなかった。あれが、自分を産んだ女だった。
涼は息をするのも忘れて、上原千夏を見つめた。自らが指定した待ち合わせ場所である掲示板の脇に立ち、周囲を見回している──渡辺涼を、探しているのだ。
涼は身が竦んだ。手が震え、動くことすらままならない。人が多い内に立ち去るべきなのだが、身体が動かなかった。
どれくらい硬直していたのかはわからないが、ようやく涼が大きく息を吐いた時に、上原千夏の元へ青年が近づいてきた。
(……天下?)
私服姿の鬼島天下だった。遠慮がちに千夏に声をかけ、何やら話した後に二人して喫茶コーナーへ移動。ちょっと待て。心の声が届くはずもなく天下と千夏の姿は角を曲がって消える。
(なんで?)
一人残された涼は茫然とした。