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   (その三)差はあれど、絶対に痛みはあるのです

 涼は目の前に置かれたチケットを憂鬱な思いで眺めた。来週の土曜に行われる演奏会。恭一郎も出演となれば一、二もなく食いついていただろうチケットに、今はやるせなさしか覚えない。

 電話にばかり警戒していたのが間違いだった。敵は戦法を変えて攻めてきた。学校の住所へ渡辺涼宛てに手紙と一緒に郵送してきたのだ。恐る恐る封を切って、中のものに一通り目を通した涼は酷い眩暈に襲われた。

 よりにもよって恭一郎の演奏会後に二人っきりで会おうとのたまうのだ!

(一体どの面さげて)

 いくら家族に知られたくないからってここまで無神経なことができる千夏に、涼は呆れてものが言えなかった。手紙の文面もまた丁寧でありながら「ご都合がよろしくないようでしたら、また機会を作ります」などと完全に会うのが前提で話が進められている。涼は一言も、言っていないにもかからわず、だ。

 どうしたものかと頭を抱えていると、テーブルの上に置いていたケータイが鳴った。着信は恭一郎から。来週の土曜日のチケットはいるかどうかの確認だった。

 残念ながら、チケットを恭一郎からもらう必要はなかった。二階席が用意されていた。千夏は一階席。離れているのがせめてもの救いだ。鑑賞どころではなくなる。

 用件が済めば、とりとめのない雑談。近況を報告し合い、涼は恭一郎が今月中にまたイタリアへ戻ることを知った。遠く離れてしまう。これ以上、頼ることはできない。

『……涼、僕に何か言いたいこと、ある?』

 それはもう、たくさんあった。なあ恭一郎、あんたの言っていた通りだったよ。さっさと関わる気がないことを示しておくべきだった。向こうは私の都合も聞かずに会う気でいる。会って、きっとまた自分の都合を押し付ける気でいる。

 正直に言えば、会いたくなどなかった。一生関わらずにいたかった。でも逃げるわけにもいかないのだ。だって、自分は何も悪くないのだから。

「花束は期待するなよ。今月ちょっとキツいんだ」

『いらないよ』

 笑みを含んでいるものの、恭一郎の声にはどこか陰りがあった。

『涼』

「なに?」

『カルメン、演りたかった?』

「唐突だね」

 涼は苦笑した。忘れもしない大学時代のことだ。

「私の声はカルメンには向かないよ」

 しかし、今となっては胸の痛みも僅かだ。ほんの少しの疼きでしかない。挫折感も時が過ぎればやがて薄れることを涼は知っていた。カシの木がさびしいことに慣れるのと同じように。

『僕は演りたかったよ』

 うん、と涼は小さく相槌を打った。

『向いていなくても構わない。贔屓だと周りから陰口叩かれてもいい。僕は君と歌いたかった』

「知ってるよ」

『君が心無い誹謗中傷に傷ついても、カルメンの座をあんな七光りソプラノに譲ってほしくはなかったよ』

「酷いこと言うね」

『本音だ』

「それは嘘だよ」

 反論する暇を与えず、言い放った。やや恨みがましい響きが伴うのは隠しようがない。

「だってあんなに楽しそうだったじゃないか」

 琴音を相手に切々と求愛のアリアを歌う恭一郎。主役が変更になっても順調に進む練習。熱意に比例して完成度は増していった。その結果、行われた本舞台では拍手喝采を浴びた。舞台の中心から離れた場所で、寂しさが募る程に確信は強くなる。自分である必要はなかったのだと。

『楽しかったよ』

 天気の話をするかのようにあっさりと恭一郎は肯定した。

『当たり前じゃないか。最初で最後の大舞台だ。選ばれなかった連中の分も僕は努力する義務があった。君のおこぼれに与った榊だって同じだ』

 期待と責任を真摯に受け止める琴音だからこそ、涼は推薦したのだ。

 音楽は演じる時が全てだ。その刹那に等しい本舞台のために、どれだけの情熱と才能を注げるかが音楽家の優劣を決める。あの時の自分にそこまで知る由もないが、当時の琴音には音楽以外何もなかった。故に危うい程の熱意を持って練習に打ち込んだ。

 涼の直感は見事的中し、ハマリ役を得た琴音による『カルメン』は大成功をおさめた。恭一郎達四年は有終の美を飾って大学を巣立った。涼の判断は間違っていなかったのだ。自分がもしカルメンに固執していたら、摩擦が生じてオペラどころではなかっただろう。今でも後悔はしていない。

「だから、琴音で良かったじゃん」

『でも君がいなかった』

 いたよ、舞台の端に。反論は心の中に留めておいた。名もない民衆の一人では納得するまい。それでも涼はたしかに恭一郎と同じ舞台の上に立ったのだ。

『芸術としての完成度や評価を問うわけじゃないんだ。例えマリア=カラスがカルメンだったとしても僕は不満に思うよ。とどのつまりは僕の自己満足だから。ところで涼、最後の舞台くらい妹と共演したいと思うのは、そんなに許されないことなのかな?』

 涼は口を噤んだ。慣れてしまえば、苦みや痛みは薄れる。やがて、何も感じなくなるのだろう。

「いや、悪いことじゃないよ」

 寂しさだってそうだ。一人でも構わない。世間的に奇妙な関係だって気にしない。舞台の中心に立てなくてもいい。自分は端役なのだと最初から決まっていれば。しかし一度、手にしてしまったら話は別だ。

「でもすごく難しいことなんだと思う、きっと」

 ずっと一緒にいたい。『みたいなもの』ではなく、本物の兄妹になりたい。舞台の中心にいたい。多くを望んで、そして失うのは耐えられなかった。春の暖かさを知った身には冬の寒さが堪えるのと同じことだ。でも、知らなければ耐えられる。これからも、ずっと。

 つまるところ、自分はあの舞台の端から一歩も動けていないのだ。


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