(その二)敵に塩を送ったりします
唐突に、恭一郎は訊ねた。
「君、カルメンを観たことは?」
質問の意図をはかるように天下は恭一郎を見た。睨眼に近い眼差しにしかし、恭一郎は臆する様子もなく再度訊いた。
「一度もないのかい?」
「授業で少し」
とだけ天下は答えた。
本当は、生で観たことだってある。第二部からではあったが。めぼしいアリアはほとんど一部で歌われると知ったのは、その時涼が落胆していたからだ。聞けば涼は一度もカルメンを生で観たことはないという。そんな、彼女にとっては一大事とも言えるカルメンをすっぽかしてまで、自分を探してくれたと思うと嬉しかった。だから舞い上がって、改札口前なんていうムードの欠片もない場所で告白してしまったのだ。
「『カルメン』が他のオペラと一線を画している要素の一つに、プリマ・ドンナの声域がある。結構低いんだ。それでもソプラノがやる場合もあるけど声に陰りのあるメゾソプラノがやる場合もたくさんある。メゾソプラノにしてみれば数ある有名オペラで唯一、主役を張れるのが『カルメン』だ」
決まっているんだよ、最初から。微かにやるせなさを滲ませながら、恭一郎は呟いた。
「そんな状況下で得たプリマ・ドンナの座を、たかが先輩に睨まれた程度で降りる音大生がいると思うかい?」
天下は一瞬、返答に窮した。カルメンのチケット一つで目を輝かせた涼の姿が、一年近く経った今でも鮮明に思い起こされた。言われなくたってわかる。好きなのだ。どうしようもないくらいに、音楽が好きなのだろう。
だが、他人と争ってまでほしいものではなかったのだ。
「……あいつに、戦う気がなかったんだろ。要するに」
あっさりと切り捨てた涼は、天下には甘えとしか思えなかった。親がいないという境遇を言い訳にした甘えだ。
「本当に好きなら、身体張って掴めばいい。簡単に諦めねえよ」
他人の理解を得るには困難さが伴うかもしれない。しかし決して不可能なことではないはずだ。それをはじめから無理だと諦めるのは努力が足りないのだ。
自らの「努力」で大抵のことを切り抜けてきた天下だけに、涼の怠惰が許せなかった。
「君の言う通りだ。本当に好きなら努力すればいい。涼も努力したさ。『カルメン』の時も、今だって。親に捨てられたあの子でも、親と死別した僕でも、努力すれば人並みに生きることはできる。でも、そんな努力をしなくても人並みに生きる連中だっているんだ」
恭一郎の瞳がやや剣呑さを帯びる。
「どうにもならないことがあるのは仕方のないことだ。世の中はそこまで公平にできてやしない。不平等を責めるのはお門違いだってことぐらい、わかっているとも。問題なのは、その不平等さを理解しない連中だよ」
恭一郎は笑った。先ほどまでの穏やかなものとは一変して禍々しささえ覚える、歪んだ笑みだった。
「親がいないくらいで不幸ぶるな。努力さえすれば進学することはできる。普通の人と同じように生きることはできる。自分達は安全地帯にいながら、そうでない他人を各個人の怠惰を理由にして責める。笑わせてくれるよ。じゃあ君達は努力したから今、金の心配はまったくしないで大学に行っているのか、努力したから両親に恵まれているのかってんだ。生まれた時から歴然と存在する差を本人の『努力』という曖昧なものだけで埋めさせようとするのは、押し付け以外の何物でもない」
天下は悟った。ここにきてようやく。恭一郎は自分を非難しているのだと。
「そんな理不尽な責めを受け続けてきた子に、自尊心が育つわけがない。ましてや他の人を傷つけてでも、自分のやりたいことを通せると思うか?」
みっともなくも涼に暴言を吐いてからまだ三日しか経っていない。涼の性格からして恭一郎に相談することはないだろうが、察しの良い兄は妹の異変を見逃さなかったのだ。その、原因にも。
天下は、涼と恭一郎の噂の中に「二人は大学時代に舞台で公衆の面前でキスした」というのもあったことを思い出した。その真偽は定かではないが、おそらく同じたぐいの誹謗中傷が、当時もあったのだろう。
だから涼はプリマ・ドンナの座を辞したのだ。あれほど好きなカルメンの役を諦めた。恭一郎にしてみれば腹立たしいことだったろう。自分が理由ならばなおさらだ。しかし、それでも恭一郎は今もなお、根気よく涼を待っている。急かすことも、苛立ちあたることもなく、どれも鬼島天下にはできなかったことだ。
「あんたは、立派な『兄』だよ」
どうして『兄』という枠で納まってしまったのかが不思議だった。いっそ恋人だと言ってもらえれば、天下とて諦めることができたかもしれない。
「大変なんだよ、これでも。君は僕がなんでも涼から話してもらっていると思っているかもしれないけど、あの子は何も言ってはくれないんだ。だから察してやるしかない。本当に面倒な妹だよ」
恭一郎は自嘲気味に呟いた。
「それでも僕はね、涼と一緒にいると赦されている気になるんだ。背伸びなんかしなくてもいい、今のままの自分でいいと思えて、心が安らぐ。だからも僕も、彼女にとって安心できる存在でありたいと思ってる」
だから駄目なんだろうね、と恭一郎は断じた。脆くて、儚くて、優しい兄妹の絆を尊みながらも、その欠点を指摘した。
「他人に恋をするってどういうことだと思う?」
ため息をついて、恭一郎はチラシとチケットを天下の前に差し出しだ。
「僕は『この人に相応しい自分になりたい』と願うことだと思う」
土曜日の昼に行われる演奏会。曲目と宣伝文句からして、オーケストラを伴奏に有名オペラの名曲を気軽に楽しむ、というのがコンセプトのようだ。出演者の中に神崎恭一郎の名があった。そしてチケットは一人分、指定席。まさか宣伝のために自分を呼び止めたわけではあるまい。
「涼も来るよ。先に言っておくが君は一階席、彼女は二階席だ。君の隣に座らせはしない。むしろ一番遠い席にしておいたから、そのつもりで」
了見が狭いとしか言いようのない台詞の後で、恭一郎はさり気なさを装いつつ付け足した。
「君の席の前列には、上原直樹くんの母親が座る」
「上原が?」
「それ以上説明する気はない。そのチケットも好きにしていい。誰かに譲ろうが捨てようが売ろうが、君の自由だ。一応忠告しておくけど、涼はたぶん一生あのままだよ。ネガティブで卑屈で陰険で根に持つ奴とこの先も付き合い続ける根性がないなら、今すぐチケットと一緒に恋心もゴミ箱に捨てて、忘れた方がいい」
わけがわからない。恭一郎を見るも彼は真っ直ぐ前──窓の外、道行く人々をただ、眺めていた。その横顔からは何の感情も読み取れなかった。