六限目(その一)舅よりも厄介なのです
「さあ飲みたまえ。遠慮することはない」
一杯五百円のカプチーノをすすめる神崎恭一郎を、天下は半眼で見た。
帰宅途中のバス停前で恭一郎に遭遇したのは、つい三十分程前のことだった。学生に混じってバス停で並んでいた恭一郎は、天下の姿を認めるなりにこやかに近寄ってきて「ちょっといいかな?」と訊ねてきた。自分は受験生だ。それに恭一郎とは互いに顔を知っている程度で交流はほとんどない。本来であるならば、こんな胡散臭い男は放って、家に帰って勉強するべきだった。
理性はそう告げるが、涼の一応『兄』であることが、天下の動きを封じた。ここまでくるともう笑うしかなかった。あれだけ拒絶されておきながらまだ繋がりを見つけようとする自分が滑稽だった。
様々な感情が混ざり合い結局、天下は恭一郎とカウンター席に並んで座ることになった。そして、何の因果かカプチーノを御馳走されていた。
「神崎さんは、テノールでしたっけ?」
訊きたいことはたくさんあるはずなのに、一番どうでもいい質問が最初に出た。自分が動揺していることを天下は遅ればせながらも気づいた。
「うん。バリトンから転向したんだ」
「そういうことって、よくあることなんですか?」
「まあ珍しいことでもないよ。プラシド=ドミンゴだって元はバリトンだ。テノールは華やかだからね。『カルメン』のドン=ホセ、『トゥーランドット』のカラフ、『トスカ』のカヴァラドッシ、オペラのプリモ・ウォーモは大半がテノールだ。それにほら、三大テノールはあっても三大バリトンはないだろ? ことオペラに関しては最初から主役と脇役が明確に決まっているんだ。女性で言えばソプラノが主役。メゾソプラノやアルトは脇役だよ」
冗談だか本気だかわからない説明をしてから、恭一郎は涼の様子を訊いてきた。
「俺よりも本人に訊いた方が早いと思いますが」
「それが教えてくれないんだよ。あの子の悪い癖だ。助けを必要としている時ほど貝になる。こっちは心配してるんだから、少しは情報寄こしてほしいよ。助けられないじゃないか」
恭一郎はおどけたように肩をすくめた。
「まあ僕としては、彼女が元気で、不倫とかしてなきゃ別にいいんだけど」
天下は呆れて言葉もなかった。潔癖な涼には似つかわしくない単語だ。それ以前に、自称「兄」がする発言ではなかった。
「だってやりかねないんだもの。一番じゃなくてもいい、二番目でもいい、とかさ。酷い男に捕まりやしないかと心配なわけだよ」
そう語る恭一郎は自然で、だからこそ違和感は強くなった。血の繋がりのない、ただの幼なじみに対してそこまで親身になれるものか。
「仲いいんですね」
「うん」
恭一郎は意地の悪い笑みを浮かべた。
「少なくとも、君よりは」
意趣返しだ。こちらが言外に含めた皮肉を恭一郎は察している。だからこんなにも挑発的なのだ。
「端から見たら奇妙だとは思うよ。戸籍上も血縁関係もないのに兄だの妹だの、おままごとと言われても仕方ない。本当は名実共に『兄』になるはずだったんだけどね。僕の母が、その前に亡くなって」
取り繕うように恭一郎は苦笑した。
「養子にするつもりだったみたいなんだ。涼が高校卒業したら。書類も用意してた」
「その前に、亡くなったんですか?」
「いや、涼が社会人として一人立ちするまで待つことにした。あれがいけなかった。いらない気をまわしたんだよ」恭一郎の目が意地悪く輝く「兄妹じゃ、結婚できないからね」
障害物どころではなかった。天下は認識を改めた。この男は、敵だ。隙あらば涼をかっさらう恋敵だ。
「それを、先生は知ってんのか」
「知らないよ。君も言ってくれるな」
「なんでだ」
故人の遺志を伝えるという意義もさることながら、天涯孤独の涼と家族になろうとした人がいた事実は、喜ぶべきことに思われた。
「自分で気づくべきなんだ。母の遺品をあさればすぐにわかることだよ。でも涼はいまだに気づかない。探そうとしないからだ」
微かに苛立ちを含んだ口調で恭一郎は言った。
「あの子の一番悪いところだ。探さない、ねだらない、求めない。手を出そうともしない。だからこんな簡単なことも見つけられない」
天下は俯いた。二十年以上も共に寄り添って生きてきた兄妹の絆を見せつけられているような気がした。お前の入る余地はないと言わんばかりに。
作者の読みが甘かったので、本日より一日二話更新です。