(その十二)だから誰にも触れてほしくないのです。
チャイムと同時に課題プリントを回収。はやる心を抑えてとにかく表面上は冷静に、提出されたプリントの数を確認し、一通りの号令を済ませた。教室を出て、職員室とは反対方向である特別棟への渡り廊下を歩く。
人気のない第二音楽室前に来た途端、涼は立ち止った。職員室に戻らなくては。課題のプリントを英語の教師に託さなければ自分の仕事は終わらない。
わかってはいたが、再び三年生の教室前を通ることを考えると、足が動かなくなる。馬鹿みたいだ。たかが生徒相手に何を大人げなく責めていたのだろう。羞恥と嫌悪が入り混じり、涼は小テストの入った封筒を握り締めた。
「大丈夫か」
涼の肩が跳ね上がった。弾かれたように振り返ると、そこには顔も見せないはずの天下がいた。帰りのSHRはどうした。そう訊ねるつもりが、別の疑問が先に浮上する。
「何が?」
天下は一瞬言葉に詰まる素振りを見せた。そして傷に触れるかのように慎重に口を開く。
「神崎のこと」
なんだ。そんなこと。涼は口角をつり上げた。恭一郎が聞いても「そんなこと」で済ませるだろう。後ろ指を差されても構わない。気にしないと笑う姿は容易に想像することができた。きっと、彼は大丈夫だ。
(でも私が駄目なんだ)
いつまでも変われないのは自分の方だった。確固たる信頼を築いたつもりでも、他人を前にすると力無く委縮する程度の関係しか結べない。
「慣れてる。自分でも変だと思うし」
「んなこと、」
「おかしいよ、どう考えても」
被せるように涼は言った。詫びも慰めも、天下から受け取るべきものは何一つとしてなかった。
「それくらい誰かに言われなくたって、わかってる。今さらどうこうしようとは思わない」
奇妙なのは重々承知。他人の理解なんて最初から諦めている。だからこそ、涼は香織が許せなかった。香織だけではない。遙香もあの教室にいた生徒達も、天下でさえも許し難かった。
香織の言っていることはある意味、正鵠を射ていた。恭一郎にせよ、直樹にせよ涼は「はぐらかして」いた。それは真剣に向き合おうとする者にしてみれば不誠実なことだろう。
でも香織達は想像したことすらあるまい。
はぐらかすことでしか保てない関係を。
それがどれだけ涼にとって尊く、惨めなことかを。
「だから、放っておいて」
天下の顔が強張る。傷付けた自覚はあったが、言葉を取り下げる気にはならなかった。涼は口を固く閉ざした。開けばもっと酷いことを吐き出しそうで恐かった。
出口を失った鬱屈は胸の中で暴れまわる。どうして、と。
周りに理解されないこともおかしいこともわかっている。それでも構わないと思っているのにどうして全く関係のない他人がとやかく言うのか。受け入れられないのなら、最初から手を出さなければいい。
「あんたな」
天下は苛立ったように舌打ちした。
「俺に関わんなだの放っておけだの好き勝手に言うが、てめえはどうなんだ。放っておかれたきゃ隠居でもしろ。無責任に言い立てられたくなきゃ弁明ぐらいしろ。誤解が広まるのを黙ってる方も悪いんじゃねえのか? 俺に口出しさせるような真似すんじゃねえ」
怒りを露わにする天下が、涼には理解できなかった。非常に単純なことのはずだった。理解できないのならば関わらなければいい。不快ならば最初から見なければいい。都合の悪い部分から目を逸らして生きることぐらいできる。千夏がそうであったように。
「前々からずっと疑問に思っていたんだけど」
涼は小さく首を傾けた。
「君は一体私の何が良くて好きだの言っているんだ?」
気概を削がれた天下は不快を露わにした。が、一蹴することもできずに渋々ながらも口にした。
「……知るかよ。とにかく全部だ」
「それは嘘だよ」
「なんで、」
「少なくとも、私の諦めの早いところは、好きじゃないはずだ」
当たらずも遠からず。天下は眉間に皺を寄せて考え込む。
「それが悪ぃか? 俺は確かにあんたのそういう妙な劣等感が気に食わねえ。勝手に諦めるのも正直腹が立つ。親のいない奴は全員、普通の人間よりも下なのかよ?」
吐き捨てるように天下は言い放った。
「何でもかんでも自分の育ちのせいにすんじゃねえよ」