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   (その十一)自分でも触ることができないのです

 課題プリントを配布して五十分後に回収。相手は受験を控えた分別のある三年生達。平時ならば二つ返事で受けるであろう自習の監視役にしかし、涼は内心ため息をついた。

 風邪だかなんだか知らないが急遽休むことになった英語教師への恨みを募らせながら教室の前に立つ。三年一組。よりにもよって天下と香織と遙香のクラス。嫌がらせとしか思えない展開だった。

 チャイムが鳴り終わるのを待ってから入室。見慣れない教師の登場に生徒達は一瞬、呆気にとられる。窓際の席にいた天下とてそれは同じらしく、手に乗せていた顎を離した。

「小峰先生は本日体調不良のためお休みです。課題を預かってますので、六限目は各自それに取り組んで下さい。授業の終わりに回収します」

 挨拶もそこそこに課題を配布。あとは勝手にやるだろう。生徒の自主性を重んじるという名目の元、涼は本来の目的である音楽史の小テストの採点を始めた。

 辞書をめくったり、シャーペンで書く音だけが聞こえる静かなひと時。一、二年生にはない落ち着いた雰囲気は好感が持てた。この分だと自分の採点作業も六限が終わることには完了しているかもしれない。

「渡辺先生、質問があるのですが」

 涼は採点する手を止めた。いつの間に教壇前にやってきたのか、香織が真正面から対峙する。その様は楽観的に見ても穏やかとは言い難かった。

「申し訳ないけど、英語はあまり得意じゃない」

「課題のことではありません。終わりました」

 課題を提出。たしかに解答欄は一通り埋まっていた。

「立ち入ったことを訊いてしまうのですが、先生は佐久間先生とお付き合いされているんですよね?」

「今はしていません」

「昔はしていたんですね」

 涼は赤ペンを教卓に置いた。あんな野郎、土下座されても交際する気はない。しかし遙香が在学中である以上、不用意な発言はできなかった。

「否定はしない」

 耳を傾けていた生徒達は「おおーっ」と、どよめいた。音楽教師の渡辺涼は知らなくとも、国語教師の佐久間秀夫を知る生徒は多い。

「なんで別れたんですかー?」

「馬っ鹿、面と向かって訊かない。失礼じゃないの」

 おい、課題はどうした。終わったのか。涼の内心のツッコミを余所に生徒達は勝手に盛り上がる。最高学年といえどもまだまだ子供だった。こちらの心情なぞお構いなしに、傷口に触れ、塩を塗りたくる。

 教室の中央の席に座る遙香が俯くのを、涼は目に留めた。

「授業中ですよ」

「すみません。文化祭で先生が神崎さんと親しげになさっていたものだから、佐久間先生と交際している噂はガゼだったのかと」

 口では謝罪の言葉を紡ぐもののその実、クラスメートの前でこちらの内情を容赦なく暴いていく。「ええー! まさかの二股?」という喚声を皮切りにやれ「文化祭で手を繋いでいるところを見た」だの「大学生の頃からの付き合いで、校内演奏会での再会をきっかけに付き合いだしたって音楽科のが言っていた」だの、挙句の果てには「鑑賞室で抱き合ってた」などと口々に喋り出すので堪ったものではなかった。微妙に真実が含まれているからなおさら厄介だ。

「石川さん、せめて勉強に関係ある質問にしてほしかったな」

「重要なことです。こうでもしないと、先生は真面目に答えてくださらないでしょう? いつもはぐらかして、ちゃんと向き合おうとしない。先生はそれでいいかもしれませんが、当事者は堪ったものではありませんよ」香織は冗談めかして付け足した「受験勉強もままならないくらいです」

 三年一組の生徒を巻き込んで振り回した覚えは全くないのだが。

「一般受験の試験問題については明るくないが、さすがに私の交友関係については出題されないと思うよ」

「そういう逃げ方が卑怯だと言っているんです」

「授業時間に三十数名の前で他人にプライベート公開を迫るのは、正々堂々としているわけか」

「認めるんですね、あれはプライベートだって」

 香織の目が意地悪く細まる。獲物を見つけた猫を彷彿とさせる表情だった。

「神崎についてなら、そうだね」

 涼は追及が入る前に釘を刺した。

「詳しくは言わないよ。それこそプライベートだから」

 三年一組の生徒達から不満の声があがる。白か黒か。灰色では到底納得できないと、当然の権利の如く説明を要求する。自分達を納得させるが涼の義務であると言わんばかりに。

 クラスメートの後押しを受けた香織は失笑した。呆れとも嘲りともつかない──おそらく両方を滲ませた笑みは、涼の神経を逆なでした。

「そんな態度だからみんなの誤解を招くんじゃないですか」

「みんな? 誤解?」涼はクラス全体を一瞥した「この中で実際に神崎恭一郎を見たことのある人が一体何人いるんだか」

 水を打ったかのような沈黙。香織をはじめとする生徒達が一斉に口を噤む。

 それは奇妙な光景だった。先ほどまで正義は我にありと言わんばかりに責め立て、はやしていた生徒達は決まり悪げに俯き、目を逸らす。

 唯一、窓側最後尾に座る天下だけが顔を上げていた。気遣うような眼差しはともすれば憐憫にも取れて、涼は天下を視界から追い出した。

「会ったどころか見てもいない他人について、よくもまあそこまで無責任に騒ぎ立てられますね」

 一度芽生えた衝動は抑えようがなかった。怒りに似て非なるそれは、制止する理性を飲み込んで口を突いて出た。

「石川さん、それは誤解とは言いません。曲解と言うんです。そして曲解を無責任に騒ぎ立てることを一般的には誹謗中傷と言います」

 公衆の面前でつるし上げられる格好となった香織は、色を失った唇を戦慄かせた。あからさまに浮かぶ傷ついた表情にすら、涼の怒りは煽られた。何故さも自分が被害者のような顔をする。他人の領域に土足で踏み込んだのだから当然の報いだ。

 様々な感情が入り混じり、収拾がつかなくなる。それが香織に対して向けられたものであるのかすら、涼にはわからなくなった。訳知り顔で安易な同情を寄せる天下に対してか、あるいは理解する気など欠片もないくせに説明を求める連中に対してか。もしくは、発端となった母と父に対してかなのか──もはやわからない。

 ただ、混乱の中で真っ先に浮かんだのは、途方もない寂しさだった。

 家族だよ。

 その一言で丸く収まる話だ。おそらく誰もが納得する理由になるだろう。これまでずっと一緒にいたとしても、これから先も同じことを望んでいたとしても──それが真実であるならば。

 他ならない涼自身が、それが妄想に過ぎないことを知っていた。渡辺涼の戸籍に他の名は載らない。生まれた時からそうだった。これからも、きっとそうなのだろう。関係を問われる度に曖昧な返答をして、誤魔化して、必死に取り繕う。兄妹の絆を捨て去ることも、かといって堂々とさらけ出すこともできずに。

「質問はそれだけですか?」

 生徒達からの返答はない。涼は事務的に、自分でも嫌になるくらい冷静に指示を出した。

「では各自課題に取り組んでください」

 それでも似非優等生の折り紙付きの清廉潔白な教師面を、外すことはできない。自分を理由に恭一郎が後ろ指さされるなど、涼には耐えられなかった。


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