(その十)恋とはすなわち愚かになることです
「駄目だよ、そんなの」
香織は必死にこちらを見ていた。触れれば切られるかと錯覚するくらい思い詰めた表情だった。天下にはそれが酷く不思議だった。血相変えて止められる理由がわからない。
「何が」
「だって、先生でしょう?」
至極当然の事のように香織は言い募った。
「歳だって五年か十年くらい離れてるじゃない」
六年だ。正確には。
涼が社会に放り出された時、天下は初めての学生服に心を弾ませていた。涼が一人で体育祭や卒業式を迎えていた時、天下はランドセルを弟達と奪い合っていた。涼が親を失った時、天下はまだ生まれてすらいなかった。
「知ってる」
「じゃあどうして」
たまりかねて天下は顔を上げた。今にも怒鳴り散らそうとする衝動を辛うじて呑み込む。代わりに口をついて出たのは、険のある言葉だった。
「なんで人を好きになるのに許可を求めなきゃなんねえんだよ。俺はあいつを抱いたこともなけりゃキスしたことだってねえ。非難される理由がどこにあんだ」
一度タガの外れた激情はとどまることを知らなかった。
「なあ、駄目だって言うなら教えろよ。教師に好きだと言ったらどうして駄目なんだ? 六歳年下はよくて六歳年上の女に惚れたら悪いのか? どうなんだ」
八つ当たりだ。天下は自分自身の格好悪さに死にたくなった。自分の剣幕にたじろぐ香織の顔が正視できない。
わかっていたことだ。涼が教師で、生徒は恋愛対象外なのも、自分より六つも年上の大人であることも。理解していながら天下は焼けつくような焦燥感に苛まれる。涼と対等でいられる全てが羨ましくて妬ましかった。
しかし、激しい嫉妬の次に胸を占めるのは途方もない無力感だ。親の庇護のない少女が孤独にひたすら耐えていた時に、自分は行くことができない。一人ではないのだと手を差し出すことができない。何しろ天下は涼の六年後に生まれたのだから。
所詮自分は涼にしてみれば物分かりの悪いガキで、いつまで経っても六歳年下なのだ。
上に立ちたいわけじゃない。せめて今──過去に遡れないのならこれから、共に歩んでいけたらと願う。しかしそれさえも天下にはできなかった。
「……上手くいくわけないよ」
香織の言葉を否定するすべを天下はもたなかった。
「男子ってさ、年上の女性に憧れる時期があるってよく言うじゃない。確かに渡辺先生は肩で風切る感じでカッコいいけどさ、やっぱり無理があるよ」
諭すような物言いに、ますます打ちひしがれる。他ならぬ天下自身が一番そうであって欲しいと願っていた。ただの憧れや甘えなら、こんなに苦しいはずがない。
例えば、優しく見守ること、神崎恭一郎のように窮地にすかさず手を差し伸べてやること。どれも自分にはできない。だから苦しいのだ。
天下は力無くうなだれた。
「そうだな」
昔だけでもなく今も。自分は大人に守られるだけの子供だった。
「してやれることが少な過ぎて、もどかしい」