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   (その九)坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのです


 本日の授業は終了。SHRも終了、となればいつまでも教室にいる必要はない。天下は鞄を片手にさっさと帰ることにした。

 図書館で勉強も捨て難いが、今日は早々に学校を離れたかった。

「鬼島くん」

 階段の途中で香織に声を掛けられる。

「もう帰るの?」

 天下は無言で頷いた。何故わざわざそんなことを訊くのかと内心訝しみ、気づく。一階の下駄箱へ降りる際に使うこの階段は、特別棟へ行く時にも通る場所だった。煩わしかった。すぐにその発想に至ってしまう自分が。

「俺に、なんか用でもあんのか」

「あ……うん、ちょっと、いいかな?」

 断る理由もないので、天下は香織の後についていった。普段は創作文芸部だかが部室として使っている空き教室に入る。そういやここで佐久間と遙香が抱き合って、写真を撮られたんだっけ、などという必要性のない記憶力を発揮した。あれから、もう半年が経っている。

「鬼島くん、渡辺先生のこと好きでしょ?」

 香織が口火を切った。質問形式でありながらも確信している口調だった。

「だったら、どうなんだ」

「好きなんだ」

「違うって言ったら信じるのか?」

「しないと思う」

 じゃあ無意味だ。天下は薄く笑った。

「渡辺先生には好きな人がいるのは知っているんでしょう」

「大学の先輩だろ。知ってる」

「一緒にご飯食べてた。その人のほっぺを拭いてたよ」

「それはそれは仲がよろしいことで」

「鬼島くん」焦れたように香織は名を呼んだ。「冷静になって。いくら鬼島くんが好きでも、相手にされてないんだから」

 そこまでハッキリ言うか普通。少なからず傷つきながらも天下は「だから?」と動じてない風を装った。優等生の猫を被るよりも難しかった。

「そんなことをわざわざ言うために、俺を呼び止めたのか」

「おせっかいなのはわかってる。でも、見てられないよ。あんまり悪く言いたくないけど、渡辺先生は酷いと思う。鬼島くんの気持ちを知ってて、学校でいちゃつくことないじゃない」

 言いたいだけ言って、香織は俯いた。制服のスカートを握り締め、小さな声で呟いた。

「私じゃ駄目?」慎重に、天下の様子を窺うように香織は続けた「渡辺先生みたいに大人じゃないし、その……満足させられないかもしれないけど」

 やおら顔を上げた香織は挑むような眼差しを向けた。

「でも、私はちゃんと鬼島くんのことが好きよ。いい加減な態度は取らない。他の男の人と所構わずいちゃついたりしない」

 強い断言の裏にある侮蔑を、天下は正確に汲み取った。

 傍から見れば、ここ一年の涼の行動は男好きと思われても仕方のないものだった。職場の同僚である佐久間秀夫を皮切りに、大学の先輩だという神崎恭一郎、挙句の果てには教え子である上原直樹に鬼島天下。男の影が絶えない女。その恋愛に対する奔放さはカルメンを彷彿とさせる。

 事情あってのことだと知っていても、天下にはその誤解を解くことができなかった。仮に説明しても香織は納得しないだろう。神崎恭一郎は兄だと涼本人の口から聞いたにもかかわらず、天下でさえ疑心を捨てられない。

 いくら幼馴染で似た境遇とはいえ、妙齢の男女があんなに寄り添っていながら、何もなかっただなんて信じ難い。少なくとも恭一郎が涼に注ぐ眼差しは、兄が妹に対して抱く肉親への愛情によるものとは思えなかった。

「どうして?」

 何も言わない天下の態度を否定と受け取った香織の顔が悲痛に歪む。

「ねえ教えて。何が違うの? あの人の何がいいの? 私の何がいけないの?」

 奇しくも涼にしたのと同じ疑問をぶつけられ、天下は返答に窮した。

 そんなの、自分が知りたい。

 音楽教師だから好きになったわけでも、生真面目だから好きになったわけでもなかった。そもそも、言葉を交わす前から、ガラス越しに見ていた時既に恋していた。

 自分にとって都合のいい条件が揃っているから好きになったのではない。無論、涼の容姿とか人間性だとかに惹かれたのは確かだ。しかし、全ては好きになってからの後付けに過ぎない。

 強いて言えば、存在そのものだ。『渡辺涼』であることが唯一にして絶対の条件。

 逆を言えば、涼でなければいくら好ましい要素が揃っていても意味がないということだった。ゼロにいくら数をかけてもゼロ以外にはならないのと同じように。

(そうか)

 天下は唐突に理解した。きっと、同じことなのだ。神崎恭一郎に涼がああも心を許しているのは、長年培ってきた信頼関係のなせるものではないのだ。もちろん積み重ねた年月は絆をより深めたのだろう。しかし決定的なのは時ではなく、その存在だ。

 神崎恭一郎が涼にとって『家族』という役柄にぴったり収まるからこそ、彼は特別になれた。唯一無二の兄になったのだ。

 では──鬼島天下は?

 どんなに足掻いても『生徒』という役柄にはまったまま抜け出せない自分は、一体何なのだろう。『役ではなかった』では到底諦めてくれない心はどうすればいい。それでもなお唯一無二になりたいと叫ぶ想いはどこへいけばいい。

「……わかんねえ」

 曖昧な返答に香織は唇を噛んだ。


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