(その八)嫌な予感は大概当たります
だから言ったじゃないか。
恭一郎の声が耳元で囁いたような気がした。拒絶するなり受け入れるなりの意思表示をさっさとしていれば、こんなことにはならなかった。天下に当たることも、たかが紙切れ一枚に、こんなに心乱されることもなかっただろう。
涼は青いメモを手にため息をついた。
(……どうしよう)
まったく迂闊なのだが、涼は向こうから接触をはかってきた場合にどう対処するのかを考えていなかった。考える暇も与えずに、千夏が攻めてきたと言っていい。意外に敵は手ごわかった。
「進路の話ですかね?」
直樹の母からの電話を受けた理恵が言う。
「相談に乗る程度なら別に問題ないかと思いますが、万が一転科とかを考えているなら、担任を通していただかないと、ねえ……」
そもそも転科なんて聞いたことがなかった。音楽科と普通科では入試の倍率が違えば試験方法も違う。たとえばピアノ専攻の生徒がチェロに目覚めて専攻を変えることはあっても、転科は不可能のはず。
(いや、この際そんなことは問題じゃない)
逸れかけた思考を元に戻す。問題は千夏がどういうつもりで自分を指名したのか、ということだ。
恭一郎からとは考えにくい。二人の関係を知っているのは当時の大学生、それもごく一部だ。今もなお続く親交も個人的なものであり、公の場ではただの大学の先輩と後輩で通っている。そして幸か不幸か。他人がプライベートにまで興味を示すほど恭一郎は有名な音楽家ではなかった。もちろん、涼も。
では、直樹から話を聞いて電話したのか。それで名前から、かつて自分が産んで捨てた娘であることを知ったのか。しかし向こうはおそらく、捨てた娘の姓までは知らないだろう。関係を断ち切りたい一心で施設に預けたのだから、その子供がどこでどう育とうが関知するわけがない。
ただの進路相談。そうに違いない。仮に向こうが疑っていたとしても確証にまでは至っていないはず。ならばこちらは素知らぬ顔で対応してやればいい。
自分ならできるはずだ。親が生死を彷徨っていようと舞台では何食わぬ顔で演奏をする。それが音楽家なのだから。
「ああ、そういえば」
理恵が声をあげた。
「渡辺先生って、下の名前は『スズ』って言うんですね。私てっきり『リョウ』だと思っていました」
「え、ええ、まあ……」
曖昧な返事をする涼の胸に嫌な予感が広がった。何故、ここにきて自分の名が。
「神崎から……聞いたのです、か?」
「いいえ。ついさっき」
一縷の希望を、あっさりと理恵は打ち砕いた。
「上原さんが仰ってましたよ」
涼の手から、メモが滑り落ちた。