(その五)直感は往々にして理屈に勝ります
悶々としていながらも、天下は身の程を知っていた。自分は、認めたくはないが、涼に振られたのだ。顔も見せないと約束した以上、関わるのは筋ではない。
たとえ涼のよからぬ噂が横行しようと、昼休みに香織が特別棟の方へ行こうが、天下には全く関係のないことだった。
(嫌な予感しかしねえ)
気を揉もうが、それは天下の勝手であり、手を出すべきではなかった。よくわかっていた。
しかし、天下は身の程を知っていたが、わきまえてはいなかったのだ。
約束を守らない奴は犬猫以下だと思いながら音楽科準備室へ向かい、未練がましい男ほど格好悪いものはないと断じつつ入室してしまうのだから、もはや手遅れだった。医者に診断してもらうまでもない。判断力の欠如。これは末期だ。
「失礼します」
と声を掛けるものの、返答はなかった。入室した音楽科準備室はもぬけのから。鍵が開いたままなので、少し席を外した程度とは思うが、不用心であることにかわりはない。
主のいない、専用机。きれいに整頓されているが故に、中央に置かれたメモが目についた。
『上原直樹さんのお母様よりお電話ありました。明日またご連絡くださるとのこと』
やや丸っこい字は涼の筆跡とは違った。明確に書いてはいないが、涼宛てにあった電話を受けた教師が残したのだろう。先方の連絡先も下に書かれていた。書きかけの市外局番を二重線で訂正して、携帯の番号を。
天下はつまみ上げていたメモを戻した。問題は誰が電話を受けたか、ではない。何故、普通科の生徒の母親が音楽科教師に電話するのか。
(転科の相談、か?)
上原直樹でわざわざ親が連絡してくるとすれば、進路に関することが真っ先に浮かぶ。しかし、それにしては不自然だった。文化祭の涼の態度もさることながら、この状況も。
違和感が少しずつだが確実に募る。
まずはこのメモ、だ。折り返しの連絡を断っておきながら携帯の番号を教える。固定電話を言いかけて、わざわざ個人の携帯を指定する。万が一、余計な気をまわされて電話してきた場合を想定しているように思えた。
隠し事をしてきた天下だからこその嗅覚だった。仮に自分がやむを得ず学校に連絡し、折り返しの連絡先を訊ねられたら個人携帯を指定するだろう。自宅の固定電話は言わない。母親が出るおそれがある。秘密がバレる危険性がある。
無論、これだけで疑うには根拠が足りない。理屈ではなく直感が、天下に怪しいと告げていた。
「おや、鬼島くん」
鑑賞室側の扉から音楽科主任が顔を出す。天下は軽く会釈した。
「ご無沙汰しております」
「久しぶりだね。もう受験生か」
しみじみと呟く主任。この大らかさは、天下は嫌いではなかった。
「渡辺先生なら資料室ですよ。上原くんの閲覧の立会で」
「いいえ、俺は……」
言い淀む。なんと説明すればいいものか。適当な理由はいつくか浮かんだが、誤魔化さなくてはならないことに嫌気が差した。
「ありがとうございます。行ってみます」
考えてみれば、涼とどうこうなる可能性は皆無となったのだから、自分が素直に好意を示したとしても問題はないはずだ。