(その四)諦めが肝心です
すかさずノック音。涼は楽譜を少々乱暴に机の上に置くと、勢いよく扉を開け放つ。
「いい加減にし、ろ……?」
尻すぼみになる声。扉の前に立っていたのは矢沢遙香だった。気圧されたようにつぶらな瞳を見開いている。
「私、何かしました?」
「すまない。人違いだ」
謝ってから、涼は今が五限目の授業中であることを思い出した。しかも遥香の手には鞄。
「授業は?」
「今週は三者面談で、午前中までですよ」
それでも先生ですか。非難の眼差しを注ぐ遙香から目を逸らす。クラスを受け持っていないとはいえ、教師として把握しておくべきことだった。いや、ついさっきまでは覚えていたのだ。
「それで、どうしてここに?」
放課後が空いていたとしても、わざわざ器楽室にまで足を運ぶほど涼と遙香は親しくない。むしろ、二人の関係を隠すためとはいえ、佐久間と交際しているふりをする涼を、彼女は快く思っていない。理不尽だと思う。だが、恋とはそういうものだ。冷静さを失わせ、周囲に迷惑をまき散らす。
「もう三日も佐久間先生と会っていないんです」
その原因がさも涼にあるかのように遥香は唇を尖らせた。
「世界史で君のクラスを担当していなかったっけ?」
「二人きりでってことです! 教室でいちゃつけるわけないじゃないですか」
鑑賞室では思いっきりいちゃついていたけどな。涼は周囲を見回した。幸いなことに人気はない。天下も諦めて部活に行ったのだろう。仕方なく遥香を器楽室に招き入れる。
「言っておくが、ここで密会しようなどと考えないように。音楽科準備室と扉がつながっているから、いつ誰が入ってきてもおかしくない」
鬼島天下のように猫を被れるのならば話は別だが、遥香にそんな機転は利かないことは百も承知だ。求める方が間違っている。
「わかっています。だから先生に協力してほしいんです」
「先生だって誰も来ない教室なんて準備できません。学年主任に頼んでください」
「ふざけないでください。誰も学校で会おうなんて考えてません」
強い口調で遥香は否定した。
「外で会いたいんです。隣町の、ファミレスとかで」
「名案だ。最初からそうしてくれれば、私も彼女のふりなんてふざけた真似をせずに済んだのに」
「先生は、佐久間先生とは何でもないんですよね?」
探るようにこちらを見つめる遙香。いっぱしに嫉妬しているらしい。微笑ましいことかもしれないが、的外れだ。
「何度も言わせないでくれ。私が好きなのはプラシド=ドミンゴです」
「じゃあ協力してください。ムカつきますけど、先生が佐久間先生と二人で学校を出れば誰も疑わないと思います。お二人は付き合っているということになっていますから」
何故そうなる。極力関わりたくない涼は顔をしかめた。
「二人で別々に学校を出れば十分だと思うけど?」
「先生の方から人前で佐久間先生を誘ってください。そうすれば効果は倍増です」
「理解に苦しむ」
涼は腕を組んだ。
「君は表面上とはいえ、私と佐久間先生が交際しているのは不満なはずだ。なのに仲良く振る舞えと言う。どういう心境の変化だ?」
「今でも嫌ですよ。でも背に腹は代えられません」
遥香は断りもなく机の上に鞄を置いた。要するに、涼と佐久間が付き合っているようにはとても見えないのだそうだ。さすがに誰かの隠れ蓑であることまでは気付かれていないようだが、不思議には思われているらしい。
「話はわかった。でも私が協力する義理はない」
「外で会え、と言ったのは先生です」
遥香は薄くリップを塗った唇をつり上げた。
「大人なら自分の発言に責任を持ってください」
へ理屈だ。涼は一度だって二人の恋愛を推奨したことなんかない。むしろ反対した。隠ぺいに加担しているのも半分以上教師としての義務だ。
涼は遥香の顔を眺めた。校則ギリギリに染めた茶髪に薄いメイクを施した可愛らしい顔立ち。長髪の手入れも大変だろう。それが何のためと問われれば、一概には答えられない。しかし、自分自身のためだけではないことは確かだ。
目の前の遥香は情熱で突っ走る生意気盛りの女子高生だ。ただの、女子高生だ。
涼はため息をついた。やっぱり自分の性分は変わっていない。