(その四)誰にでも間違いはあります
一日で学生が自由にできる時間帯は限られている。朝のHR前、昼休み、そして放課後。その中から適当な時間を選んでやってきた、と考えれば常識の範囲内と言える。しかし、だ。
遅い昼食をとろうと弁当を広げた所に前触れもなく現れ、そのまま話をおっ始めるのはいかがなものか。
(ここはいつから避難所になった)
音楽科準備室の専用机。その上に置かれた弁当には目もくれない来訪者を涼は半眼で見た。
「一体どういうつもりなんです?」
人目がないのをいいことに詰問口調。まずお前がどういうつもりなのかを涼は訊ねたかった。
「どういうつもり、とは?」
「後輩から聞きました。神崎さんとは交際しているんですよね?」
杉本はバスケ部だったことを思い出す。伝えるのは結構だがせめて正しく伝えてほしかった。
「しておりません」
「学校に迎えに来て、一緒にご飯を食べて、頬についた汚れを拭いてあげて、人前で手をつないで歩いているのに?」石川香織は鼻で笑った「嘘をつくにも、」
「嘘じゃない」
涼は強い口調で否定した。
「神崎は大学の先輩で友人だ。そんな押し問答をしに君は押し掛けてきたのか?」
気圧されたのか、香織は一瞬口を噤んだ。が、すぐさまくってかかる。
「では先生は、好きでもない男性と手を繋いだり親しげにするんですか? 誰が見たって彼氏ですよ。鬼島君の気持ちを知っていながら、そうやってハッキリしない態度を取るなんて、不誠実です」
誠実にハッキリと振ってやったとも。大嫌いとまで言った。それでも香織は満足しないのか。こちらを睨む挑戦的な眼差しには一分の恥も見受けられなかった。
そして何の因果か、このタイミングで直樹が入室。すぐさま異様な雰囲気を察知し、困惑を露わにする。
「え……と、お取り込み中ですか?」
「石川さん、すまないが先約だ。日を改めてくれないか? 今日の放課後は難しいけど、明日以降なら時間は取れる」
香織は心外と言わんばかりに顔をしかめた。
「昼休みに資料室を閲覧させる約束なんだ」
そこまで言ってようやく引き下がる。ものすごく不満げに渋々と。生徒を理由に逃げるなと言いたいようだ。仕方なく涼は時間を作ることにした。
「で、明日以降のご都合は?」
「結構です」
言い捨て、香織は準備室を去った。残された直樹は頬をかく。
「……俺、邪魔でしたか?」
「そんなことはない」
涼は涙を呑んで、一口も食べていない弁当を鞄にしまった。昼休みは残りあと三十分。五限目は合唱の授業が待っている。昼飯は諦めなくてはならなかった。
個人的な昼飯事情はおくびにも出さないで資料室を開けてやる。直樹はそれとわかるくらい嬉しそうにCDの棚を探し始めた。備え付けのイスに腰掛け、涼は傍にあった楽譜をぱらぱらめくった。フォーレのレクイエム。去年、合唱の授業で使ったものだ。
「神崎さんって、先生の先輩ですよね?」
「大学の先輩で友人ですが交際はしていません幼馴染のようなものとご理解下さい」
一息で言ってのければ、直樹は小さく笑った。
「俺も聞きましたよ、その噂。校内演奏会の時からちらほら出てましたけど」
「高校生は暇で困る。しかしまあ人の噂も四十九日だ」
涼は苦笑して楽譜をめくった。
「七十五日ですよ」
「え?」
「四十九日は納骨。噂は七十五」
直樹の頬が引きつる。
「まさか先生、間違えて……」
涼は譜面に額を押し付けた。名目し難い沈黙。一般的に「気まずい」と題する微妙な空気の中で、先に立ち直ったのは直樹の方だった。
「ま、まあ」
直樹は咳払いした。
「神崎さんが校内演奏会で学校に来たのは一ヶ月くらい前だし、噂はその後に出はじめたわけだし。そう考えれば、つじつまは合い、ますね……うん」
涼は楽譜ごと机に突っ伏した。勢い余って額を打つが、精神的ダメージが肉体的衝撃を遥かに上回る。
(ななじゅうご)
そうだった。四十九は仏教の法要であり、噂とは全く関係がなかった。
「大丈夫ですよ。七十五の数字に根拠はないんだし」
しかし四十九にはあったような気がする。七の二乗。仏教には詳しくないので詳細な由来はわからないが。
しかし、いくらなんでも四十九と七十五は間違えない。直樹の慰めも意味を成さなかった。涼は間違えたのだ。大学を出て、教員免許を取得し、いつも澄まし顔で生徒に教えている先生が、間違えたのだ。しかもこんな初歩的なことを。
「よくある間違いですから」
そんな頻繁にあってたまるか。むしろ直樹に慰められる程、いたたまれなさは増した。
「四十九と、七十五くらい……っ!」
そこで直樹は耐え切れなくなった。吹き出したのをきっかけに腹を押さえて笑う。遠慮なく。涼が楽譜から顔を上げて、恨ましげに睨もうとお構いなしに、直樹は肩を震わせて笑った。
「すみませんすみません、先生でも間違えるんだと思ったら、つい」
「笑い過ぎだ」
涼は楽譜で直樹の頭をはたいた。そうやって直樹を責めておきながら、なんだかおかしくなってきて、自分でも笑ってしまった。
教師としての面目は丸つぶれだが、悪い気はしなかった。