(その二)四十九日に根拠はありません
自分と恭一郎の噂など、四十九日を待たずして消えると思っていた。世の中、教師の恋愛事情よりも大切なことはたくさんある。受験生ともなればなおさらだ。
しかし、一週間が経過しようと話の折に「神崎」があがる度に、涼は考えることになる。すなわち、世の中、大切なものは案外少ないのかもしれない、と。
(暇人どもめが)
涼は額に手を当てた。授業を早めに終えての休憩時間。生徒達から次の課題となる歌唱曲に関する質問を受け付ける──そこまでは良かったのだ。
発端は思い出せないが、歌う際の注意点から原曲のオペラの話になり、やがて大学、サークル活動と変遷を遂げて話題は恭一郎についてになった。
「お兄さん、じゃないんですか?」
「苗字が違うでしょ」杉本が指摘する「大学の先輩、ですよね?」
涼は頷いた。少なくとも、世間一般でいう「兄」ではないことは確かだった。かといって的確な表現方法も思い浮かばない。説明するには、涼の過去は複雑過ぎた。聞くにも語るにも楽しい話でもなかった。
結局『大学の親しい先輩』の線で通すしかないのだ。様々な違和感や矛盾点には目をつぶって。
「そんなに、変なことかな」
疑問が口を衝いて出る。小さなぼやきは誰の耳にも入らなかったようだが、釈然としなかった。
悩みは恭一郎のことだけに尽きなかった。よりにもよって直樹までもが噂に上っているのだ。無論、恭一郎に比べたら微々たるものだが「渡辺涼がえこひいきする生徒」の一人になっている。最悪だった。
おまけに噂になった理由を突き詰めれば、休み時間に話をして頻繁に物の貸し借りをしているから、だそうだ。なお、涼は直樹に何かを借りた覚えはない。心当たりといえば、合唱曲集のCDやらオペラのDVDを直樹に貸したことぐらいだった。音楽科で管理しているのを、正式な貸出手続きを踏んで──もはやどこから弁解すればいいのかもわからなかった。
涼はしばし、イタリア語の歌曲を難しいだの発音わからないだの口々に言う杉本達を眺めた。そろそろ次の授業が始まる時間だ。退室を促す。
「原曲のCD、貸せるけど聴いてみる?」
念のために訊くが、杉本と他の普通科生徒も少し考えて、辞退した。これが音楽科の生徒なら二つ返事で借りただろう。つまり、仮に直樹が音楽科に所属していたなら、CDの貸し借りは別段親しいとは認識されない行為なのだ。
音楽科教師達もそれはわかっているらしく、この件に関して口を挟んでくる者はいなかった。せいぜいが「何を今更言ってるんですかねえ」と他人事のように首を傾げる程度。音楽科では当たり前過ぎて説明する気にもならないのだ。
(くだらない)
音楽であれ何であれ、生徒の興味関心を深めて広めるのは教師として当然のことではないのか。自分が好きなものであるなら熱が入るのもなおさらだ。
自分に限らず音楽科教師は音楽が好きだ。オペラが好きだオーケストラが好きだ。だから、興味を持ってくれる生徒が好きだ。もっと好きになってほしいと思う。ただ、それだけだ。
至極単純で明快なことにさえも、いちいち理由をつけたがる。誰だか知らないが無責任に噂を広めた奴にも、それを鵜呑みにして踊らされる連中にも、涼は煩わしさを覚えた。