(その三)隣の芝生は青く見えるのです
武器を手にしたらあとはいかに攻めるか、だ。涼は二、三入れ知恵をして杉本らクラス代表を職員室へと出陣させた。おまけの統には可能な限り入り口を封鎖し、学年主任に逃げる口実を与えないように指示しておいた。当初の計画通りにはできないだろうが、たぶん、大丈夫だろう。
ほのかな達成感に浸りつつ三人を見送っていたら、入れ違いに直樹がやってきた。
「こんなとこにいたんですか?」
「君のクラスに少しおせっかいを」
サボりの言い訳にしてはお粗末だ。涼は話を逸らすことにした。
「何かあったのか」
「いえ、特に何もないんですが……」直樹は困ったように頭に手をやった「先生がちょっと気になって」
「私が?」
「俺、調子に乗ってべらべら喋ったから、気を悪くしたのかと」
考えてみれば話の腰を折るように退いたのだから、そう思われても仕方なかった。かといって、馬鹿正直に「母親の話が出たので退場しました」と言うわけにもいかず、涼は返答に窮した。
「君のご家族の話を聴いて、私が不機嫌になる道理はないよ。音楽家族は羨ましいと思うけど」
「先生のご家族は、音楽にあまり興味がないんですか?」
まず家族がいないのだが、それはさておき。最初に思い浮かぶのはいつも彼女のことだ。音楽に限らず芸術を嗜むような人ではなかった。
「協奏曲と交響曲の区別もできない人だったよ。入学して初めての演奏会に呼んだら、開演前から寝てた」
その日の犠牲者は、眠ってしまった彼女を連日の仕事の疲れの故だと労って起こさなかった恭一郎だった。客が何を求めているのかもわからないようでは大成しない、と理不尽な説教をされていたのを覚えている。
しかし、今になっても彼女が何を求めていたのかは涼にもわからなかった。
前置きが長い、とオペラに文句を言っていた。チケット代に含まれているはずのアンコールに拍手を求められることに納得しなかった。開店記念でもあるまいし、直接渡せもしない花束をたかが演奏会の度に贈ることを無意味と断じた。どんなに熱く語ってもドミンゴの素晴らしさを理解してくれなかった。ほとんどの歌詞がイタリア語──日本語でないことが不満で、隠そうともしなかった。結局、演奏会に足を運んだのだって、その寝てしまったのが最初で最後だ。今思えば、音楽に対する理解も歩み寄ろうとする気概もない、酷い人だった。
「音大によく行かせてくれましたね。反対はされなかったんですか」
「されたよ。音大通うくらいなら、専門学校行って手に職を持てと言われた」
(でも、くだらないとは一度も言わなかった)
やめてしまえとも言わなかった。学費に困ることは一度たりともなかった。汗水たらして働いて得た金を、自分は好きでもない音楽の道に進もうとする甥と赤の他人のために使った彼女は、一体何を望んでいたのだろう。
「……でも結局は、賛成してくれたんですよね」
理解のある親。直樹の眼差しに羨望の色が混じる。
「そういうことに、なるかな」
賛成してくれたのかは今でもわからない。でも涼の話を聞いてくれた。応援してくれた。
「いいなあ」
直樹は無邪気に羨んだ。
「うちのお袋もそれくらい理解があればいいのに」
直樹の親に対する遠慮のない物言いこそ、涼は羨ましいと思った。大学に通わせてもらっていた立場では、そこまでふてぶてしくはなれない。




