(その三)でも大概は失敗します
遠慮のないノック音が聞こえたのは、涼が楽譜整理に取り掛かろうとネクタイを緩めた瞬間だった。廊下に面した扉、その小窓越しに天下のむっつり顔が見えた。いつも通り入ろうとしたら開けられなくてノックしたらしい。
オイなんで閉めてんだよ、開けやがれ。目を見ただけで彼が何を訴えているのか、わかってしまう自分に涼は絶望しかけた。
いや、諦めるにはまだ早い。今ならまだ間に合うはずだ。決意を固めて黒の太ペンを手に取る。コピーし損じの裏紙に『作業中につき、立ち入り禁止』と書いて、セロテープで小窓に貼ってやった。やるからには徹底的にやる。甘ったるい情はバッサリと切り捨てて涼は楽譜整理に取り掛かった。
再びノック音。
乱暴ではないが、執拗に。何度も。しばし迷ったが、涼はついさっき貼ったばかりの紙を剥がした。
『何を今更』
ルーズリーフのノートに、やや癖があるものの綺麗な字でそう書いてあった。涼は再びペンを取った。『いいから帰りなさい』と掲げる。小窓の向こうで天下は口元をヘの字にしてボールペンで何やら綴った。
『理由を三十文字以内で述べよ』
お前は教師か。これは試験問題か。呆れながらも涼はもっともらしい理由を書いた。
『君がいると作業がはかどらない』
『他人のせいにしないでください』
『だから検証します。これで作業がはかどったら、原因の所在が明確になる』
『邪魔した覚えがありません』
『気が散る』
『先生に集中力がないだけです』
『いいから帰れ』
『バラしますよ』
何を、だなんて訊くまでもない。恋に盲目バカップルの件だ。
『やれば?』
『あっさり見捨てましたね。それでも教師ですか』
脅している奴に言われたか――間違った、書かれたくはなかった。反撃の言葉を書き連ねている間に、ふと涼は我に返った。足もとに散乱する裏紙。手には太ペン。
なんでガラス越しに天下と文通なんぞしているのだろうか。
(意味がない。全くもって意味がない……っ!)
結局、相手をしているではないか。
『ところで先生、作業しないのですか?』
挙句の果てには、本人にまで指摘されて涼は非常にいたたまれなくなった。極太ペンのキャップを外して書き殴る。
『帰れ!!』
小窓に叩きつけて、今度こそ整理作業に取り掛かった。