(その七)間違ってはいません。
図書館の裏手には記念樹がひっそりと佇んでいる。その存在を知る学生はあまりにも少ない。何年前の卒業生が贈ったものだかは知らないが、もう少し場所を考えるべきだった。
おかげ様で記念樹のふもとは絶好の密談場所になり、涼も利用させていただいていた。卒業してからもお世話になるとはさすがに思わなかったが。
「入場制限があるとは知りませんでした」
あるかそんなもの。わかりきったことを言う天下の口調は皮肉めいていた。
「何故来た」
「そりゃあ来るさ。『カルメン』じゃねえか」
「初耳だ。君がそんなに『カルメン』が好きだったとは」
「好きになったんだよ」
その言葉が示す意味を涼ははかりかねた。
自分は断固として認めないが、天下曰く『初めてのデート』で観に行ったオペラ。見損ねた第一部。帰り道、駅の改札口前で突然告白された。天下の中ではあの時既に始まっていたのだ。対する涼はというと、天下の恋心に薄々感付いていたものの、ほとんど取り合っていなかった。所詮、思春期の少年の考える一時的な感情だし、そもそも彼は教え子だ。生徒は完全に対象外だった。
「私は、好きじゃない」
そもそも、だ。重要なのはいつ始まったかではない。手遅れになる前に終わらせることだ。今、ここで。
「カルメンが?」
「君が」
天下は虚を突かれたように目を瞬き、やがて呆れたように呟いた。
「何を今更」
「今更じゃない。ずっとそう思ってた。これからもそうだ」
天下は胡乱な眼差しをこちらに向けた。いつもの軽口を叩ける状態ではないことを察したようだった。
「俺の何が駄目なんだ」
「年下だから」
「男女の平均寿命の差を考えろ。ちょうどいいじゃねえか」
「似非優等生だから」
「俺が体面を気にしなくなったら、困るの先生の方だろ」
「生徒だから」
「来年卒業する。生徒じゃなくなる」
打てば響くように返してくる天下に涼の苛立ちは募る。千夏といい、直樹といい、目の前のこいつといい、どいつもこいつも自分を煩わせる。いい加減にしろと怒鳴り出したい衝動を堪えて、低く言った。
「面倒だから」
「お互い様だ」
涼は反発を覚えた。一体自分がいつ天下に面倒を掛けた。遙香と佐久間の件では確かに助けてもらったりもしたが、それだって天下が勝手に首を突っ込んできたのだ。自分が頼んだわけじゃない。
一度ついた火は急激に勢いを増した。
「私がいつ、好きになってくれと頼んだ?」
この数日間でたまりにたまったものがせきを切ったかのごとく溢れだした。
「君が現れてから、面倒ばかりだ。神崎にはたしなめられるし琴音には責められるし、挙句の果てには詮索されて生徒にまでなじられる。どうして私が毎回毎回君のことで弁明しなきゃならないんだ。おかしいとは思わないか? 私が、君のことを好きならそれも仕方ないだろうけど、そうじゃないにもかかわらず、だ。明らかに不公平じゃないか」
天下の件にせよ、直樹の件にせよ、それが自らの行いに対する報いだというのなら、涼とて甘んじて受け入れただろう。しかし、原因は他にあった。しかも、過ちを犯した当の本人たちは平然としているのだ。他人に非難されることも肩身の狭い思いをすることも、惨めに思うこともなく生きている。それどころか、別の男性と結婚して息子まで産んでいた。何一つ損なうこともなく、幸せに、平穏に暮らしている。
こんな理不尽な話があるか。涼は怒りで目が眩みそうだった。
「間違ったことをしていないのに、どうして私が?」
言いたいことを言いたいだけ言って気分は晴れやか──になるはずもなかった。むしろ虚しさは増すばかりだ。年下の生徒相手に何を大人げなくなっているのだろう。こんなのはただの八つ当たりだ。いたたまれなくなって涼はその場から離れようとした。
「待てって」
肩を掴まれ、やむなく止まる。涼は挑むように天下を見据えた。
「俺の顔見て、ハッキリ言え。嫌いなのか?」
「あのな、」
「そしたら諦める。顔も見たくねえって言うなら、もう見せねえ」
そう言う天下は、一縷の希望に縋っているようにも、一思いに斬られる覚悟を決めているようにも見えた。いずれにせよ涼の答えは最初から決まっている。
涼は断ち切るように告げた。
「大嫌い」
自分の声が、やたらと明瞭に聞こえた。意識して声を張ったわけでもないのに、舞台の台詞を言うようにハッキリと、そして真実味があるように。これでも涼は元声楽家志望だ。感極まって喋れなくなるような失態は犯さない。成すべき役目を果たすだけ。
目の前の天下は真剣な表情のまま動かなかった。衝撃のあまり硬直したのか──いや、緩慢にだが天下の片頬がつり上がる。
「……『大』まで付ける必要、あったか?」
天下は薄く笑った。自嘲混じりの笑みだった。
「先生は容赦ないですね、相変わらず」
他人行儀な優等生口調に、涼は安堵を覚えた。これでいいのだ。天下にとっても自分にとっても。
自分は違えない。あの女と同じ道は歩まない。