(その五)悪意がないことが一番酷いのです
正直に言えば、電車に乗る前くらいは明るい話題を提供してほしかった。笑顔とまではいかなくても、いつも通り穏やかに別れられるように。
「僕が口を挟むのもお門違いかもしれないけど」
遠慮を見せつつも、恭一郎は踏み込んできた。
「本当に、このままずっと無関心を貫くつもりかい?」
何を、とシラを切るつもりはなかった。嫌がるのを知っていてあえてその話題を蒸し返してきたのだから、そう簡単に引き下がるとは思えない。返答如何では飛行機の一便や二便くらいは平気で見逃す。だから涼は正直に答えた。
「少なくとも、積極的に関わるつもりはない」
「弟でも?」
「同じ腹から出てきたってだけじゃないか。教師としての愛着はあっても姉としての実感はわかない。おまけに半分は他人だよ」
「でも半分は肉親だ」恭一郎の声は切実でさえあった「とても大切なことだと思う」
もはや一人も血の繋がった肉親を持たない恭一郎だからこそ、こだわるのだろう。本人には口が裂けても言えないが、代わってやれるのならいっそ代わりたかった。二十四年も放置しておきながら、ただ血が繋がっているという理由だけで振り回す連中が、涼には煩わしかった。
「上原家が崩壊しようが僕は自業自得だと思うけど、それで君が後悔しないか心配だ。親になることを放棄した人だけど、君を産んだ人だよ」
「育てるどころか、産む気もおそらくなかったと思うよ」
千夏さん、と涼は補足した。さん付で呼ぶことに違和感はなかった。
「……で、たぶん堕ろす気もなかったんだと思う」
恭一郎は首を傾げた。
「じゃあ、どうするつもりだったんだ?」
「どうもするつもりがなかったんだよ。考えてない──考えることを放棄したら結果的に私が出てきてしまった。ただそれだけ」
悩んだ末にやむなく捨てたのだと、思っていた。しかしそれは涼の勝手な解釈に過ぎなかった。悩み疎む対象にすら涼はなり得なかったのだ。
涼を捨てたのは、世間体を気にした千夏の母だった。高校生の時に釘を差してきたのは父の父だった。当の本人達は何もしていない。都合の悪い過去を忘れたというのも語弊がある。忘れたも何も、覚えていないのだから忘れようがないのだ。
高校生同士で恋をして身体を重ねた。身体を重ねたら身ごもった。身ごもったら子が生まれた。育てられないから育てられる人に預けた。
一連の流れの中で、原因となる本人達の意思が介在する余地は見当たらなかった。
「賭けてもいい、悪いとは思ってないよ。ましてや赦してほしいなんて微塵も思ってない。無かったことにしたがっているだけだ」
しかしどんなに忌まわしい過去であろうとも、消し去ることはできなかった。母や父、そして周囲の人間、数え切れない後悔を伴う過失の上に涼の存在は成り立つ。
「赦してほしくもない人を私は一体どうすればいい?」
恭一郎は微かに苦笑した。聞き分けのない子供に対するように。諦めた時に見せる表情だった。
「そうだね」独り言のように小さく呟く「難しいね」
肉親に捨てられたが故に、涼は『彼女』と恭一郎に出会った。それは少なくとも自分にとっては幸運なことだった。曲がりなりにも家族らしいものを得た。
しかしその『兄』もどきは『妹』同然を諌めるのにも「お門違いかもしれない」と一言添えなくてはならないのだ。肉親ならばあり得るはずのない遠慮が常につきまとう、歪でぎこちない関係しか築けなかった。




