(その四)戦闘開始です
涼の危惧を余所に歌劇『カルメン』はつつがなく終演。なかなかいい出来だと思う。先輩としての贔屓目を差し引いたとしても。
四年前に同じ場所で主役のカルメンを演じた琴音はというと「及第点ってところかしら」と批評家よろしく偉そうにコメントした。無論、その需要のない個人的主観に満ちた評価は隣に腰かけていた涼の耳にしか入らなかった。
公演が終われば後は解散だ。念のため会場出口から少し外れた掲示板前で再集合し、人数確認をしておく。一同をぐるりと見渡していた涼の目に、嫌という程見覚えのある奴の顔があった。
正確には、顔写真だ。生徒一人一人を数えていた指が止まる。声楽科の掲示板に貼られた海外コンクールの結果は「二位 榊琴音」とあり、余所行きの柔らかな笑みを浮かべる琴音の写真が隣にあった。
「これって……」
「先日のコンクールですよ。一位なしの二位だから、事実上は先輩が一番」
大学の後輩の説明に、生徒達が色めき立つ。声楽部門では結構有名なコンクールであることも助長した。掲示板の前に一斉に集まり、顔写真と本人を交互に見る。
「コンクール、受けたんだ」
結果よりも涼にはそちらの方が驚きだった。教授に煽てられても宥められても頑として拒否し続けた声楽科期待の星。琴音のコンクール嫌いは当時の声楽科で知らない者はいないくらい有名だった。
「ちょっと試しに、ね」
素っ気なく言うが、琴音は照れたようにはにかんでいた。一体どういう心境の変化かはわからないが、素晴らしいことだ。涼は素直に賛辞を贈った。
「流石だね。おめでとう」
「どうも」
「そりゃそうですよ。なんてったって、スタンウェイの貴公子の妹ですから」
自らのことのように得意気に話す後輩。悪意はないのだろうが、配慮もなかった。和やかな場は一瞬にして硬直する。
「……え?」
琴音もとい『スタンウェイの貴公子の妹』を不躾に見、やや間の抜けた声を皮切りに一同騒然。
「え、まさか、あの吉良醒時の?」
「マジ? どうりで──」
驚愕はすぐさま羨望へと転化する。つい先ほどまで琴音の歌唱力を羨んでいたはずの生徒達はあの鬼才ピアニストの妹であることを羨んだ。
不用意な発言を涼は疎んだ。吉良醒時と同じ遺伝とするには、彼女の実力は凡庸だ。本人が一番良く理解している。何より、琴音は吉良醒時とは一切血が繋がっていない。
「まあ、兄をご存知なんですか?」
日本人初のショパンコンクール優勝者。知らない音楽家を探す方が大変だ。わからない琴音ではないだろうに、すっとぼけて無邪気な笑みを浮かべた。
「嬉しいわ。今後とも兄をよろしくお願いします」
あ、こいつ今、舞台上に立ってる。
愛想良く応じる琴音の笑顔は一点の曇りもなく、それでいてどことなく品があり、彼女の育ちを伺わせた。そしてこういう天然お嬢様ぶりは、彼女の演技に過ぎないことを涼は知っていた。太陽には必ず影がある。見せないだけだ。
なおも食い下がろうとする生徒達に涼は解散を宣言した。教師の体面として「寄り道せずに帰るように」とおざなりな注意を添えて帰路につかせる。
「悪かったね」
「元はと言えばこっちのせいよ」
琴音は片付けに勤しむ後輩達──先ほど吉良醒時の妹だと紹介した女子大生へと目を向けた。
「悪い子じゃないんだけどねえ……」
たしかに。ただ考えが及ばないのだ。吉良醒時に限らず鬼才は多大な影響を家族に与える。それが必ずしも良い影響だけではないことを。
琴音の場合は特に複雑だ。彼女が愛しのお兄様に抱く感情は過度な愛情だけではない。音楽の才に対する劣等感、焦燥。そして、過失からの罪悪感と恐怖。
涼は恭一郎のことを思った。血の繋がりもなく、戸籍上もただの他人に過ぎない『兄』もどき。出国するまで、もしかしたらイタリアに着いても、心配していた。




