(その三)もう腹は括っているのです
キャンパスの敷地内、掲示板裏の古いベンチの背もたれに、涼は手を伸ばした。やや塗装が剥げかかっているものの、在学中と変わらない様相に懐かしさを覚える。日当たりの良さと図書館が近いという利便性もあり、涼はよくお世話になった。天気のいい日はここで読書をした。昼食もここ。恭一郎と待ち合わせをしたのも大体ここ。そんでもって──
「あんたなんか大嫌い」
振り向くと、琴音が咎めるように軽く睨んでいた。
「過ぎたことをいつまで経っても黙って覚えてるところが特に」
「いつまでも申し訳なく思うのは君の勝手だけど、当の本人にあたるのはやめていただきたいね」
「私は悪いなんて思ってないわ」
初めてまともに言葉を交わした思い出の場所で、琴音は胸を張った。
「むしろ感謝してほしいくらいよ。あんたが受けるはずだったやっかみを、代わりに私が味わったんだから」
先輩を差し置いてプリマ・ドンナの座を手にした琴音は羨望と嫉妬を一身に浴びた。裏を返せばそれだけの栄誉を手にしたということだ。自分が、手放したものを。
「それはどうもありがとう」
「いえいえ、礼には及びません」
軽口の応酬をしている間に、掲示板前には生徒達が揃ったようだ。琴音の後輩と思しき女子大生が「舞台裏、案内してきますねー」と快活に告げて、生徒達を引き連れていく。
「去年より増えてない?」
「好評だったみたいだよ、バックステージツアー。あんまり見れるものでもないからね」
案内役の手配を頼んで正解だった。さすがに校外で十数名の生徒の面倒は見切れない。
「涼も大変ねえ」
他人事のように呟く琴音の視線が引率される生徒達の中をさ迷う。
「何か?」
「いや、ちょっと……」
琴音は言葉を濁した。
「そういえば、鬼島君は元気?」
仮にも役者志望ならばもう少し台詞を選ぶべきだった。涼は半眼で琴音を見た。
「鬼島を呼んだのか」
「招待状を送ったことは認めるわ」
琴音は大仰に腕を組んだ。完全に居直った態度――むしろ非難は覚悟の上と言わんばかりだった。
「怒らないの?」
「私が怒るのは筋違いだよ。誰を招待しようが主催者側の自由だ」
あらそうですか、と言う琴音の唇は尖っていた。責めても責めなくても不機嫌になる彼女に涼は理不尽さを覚える。一体どうしろというのだ。
涼の内心を見透かしたように琴音は言った。
「そうやって一般論振りかざして逃げるのって、卑怯だと思う」
感情的になるわけにもいかず、事務的になれば不誠実だと非難される。天下の件になると涼の分はとことん悪くなる。それは琴音に限ったことではなかった。香織にしても恭一郎にしても、見解は違えど批判的だった。それも、教師と生徒の恋愛をではなく、涼の態度を咎めていた。つまり、優柔不断さを。
(立ち向かうしかないってことか)
そのつもりはなかったが、口に出していたらしい。琴音は訝しげな顔をした。