(その二)用心と杞憂は紙一重です
……という天下の内情を知る由もない同級生、矢沢遙香は補講が終わるなり、チラシをひらひら見せびらかした。
「今日、行かないの?」
行けるか馬鹿。天下は押し黙ってノートを鞄にしまった。
「ん、お前オペラ観んのか?」隣に座る亮太が覗き込む「『カルメン』ってどんなのだっけ」
題を知っていても、あらすじやモチーフまではわからない。亮太の反応は一般的な高校生のものだった。自分の判断の正しさを天下は再認識した。普通の高校生は夏休みにオペラ鑑賞はしない。
「オペラ?」
耳聡く香織までもが首を突っ込んでくる。チラシを見、次いで天下の方を。探るような眼差しから天下は目を逸らした。誰に対するともなく苛立ちが募る。
「行かねえ」
席を立っておざなりに別れを告げる。が、天下が教室を出てもなお、遙香は食い下がった。不機嫌さを隠そうともしない天下にも臆せず、むしろ楽しそうに。
「意地張ってないで行きなさいよ」
「暇じゃねえんだよ、こっちは」
「またそんな粋がって。後生大事に持ってるチケットが泣くわよー」
下駄箱前で天下は足を止めた。何故それを。反射的に遙香の方を向いて、激しく後悔した。そう言った遙香自身が、目を見開いていたからだ。
「……え、まさか図星だったの?」
今の反応はあまりにも正直過ぎた。遙香の指摘違わず、天下の財布には今日のオペラの招待券が入ったままだった。案内チラシを捨てた後も未練たらしく残るチケットは、さながら天下の心情を表しているようだ。
自身の失態に天下は舌打ちしたくなった。しかし時既に遅し。遙香は我が意を得たりとばかりに口角をつり上げた。
「素直になりなさいよ」
「余計な世話焼く暇があったら、てめえの心配しろ」
「深く考え過ぎだって。みんな普通に行ってるんだから」
「音楽科がな」
靴に履き替えて裏門へ向かう。
今更ながら、天下は遙香と佐久間の交際が一年以上も続けられた理由の一つを発見した。根拠のない自信に基づく楽観視。そして馬鹿正直さ。世間体に気を取られていては、とても生徒と教師で恋愛する愚行なんてできはしない。
社会的自殺に等しい恋愛をする二人を、天下は端で蔑んでいた。そんなことに骨を折る涼に対しても。俺ならば、という思いがいつもあった。自分だったら、迷惑バカップルの二の舞にはなるまい。もっと慎重かつ上手く立ち回る。周囲に迷惑を撒き散らすようなことは絶対にすまい。
しかし、どんなに取り繕ろうとも結局は生徒と教師の恋愛なのだ。差異はあっても根底は『高校生に相応しからざる行為』に他ならない。他人の目には、遙香も天下も同じに映る。
「普通科だって行くよ。ほら、元弓道部の」
「今は合唱部だ」
と言いつつも、天下には釈然としない思いが残った。上原直樹がやたらと涼に対して馴れ馴れしく見えるのは、気のせいではないはず。あいつも行くのか、涼の母校へ、涼と一緒に。しかも『カルメン』を観に。『トスカ』でも『ラ・ボエーム』でも『魔笛』でもなく、よりにもよって『カルメン』を。
(俺ですら全部観てねえ……っ!)
あの時、涼と一緒に観たのは二部からだった。『ハバネラ』も『トレアドール』も既に終わった後──涼が見逃した残念さを全く隠そうともしなかったのが、今でも心に残る。涼の自分に対する配慮の無さに呆れ、たかが歌劇にそこまで一喜一憂できる情熱に感心し、そんなに好きなアリアを逃させてしまったことを申し訳なく思い、『カルメン』よりも一生徒に過ぎない自分を探しにきてくれたことが嬉しかった。
「あ、やっぱり行くの?」
無視を決め込むのはせめてもの意地だ。敗北感を覚えつつも天下は鞄を背負い直した。




