(その十)この心、君知らずでいいのです。
「お帰りになる前に、三年二組に寄っていただけませんか?」
怪訝な顔をする美加子に、涼はさらに言った。
「ご子息はもう一人いらっしゃるはずです。私の記憶違いでなければ、彼の三者面談も今日行う予定ですよ」
「いえ、天下の面談は延期になったと主人が、」
「延期にするつもりなんでしょう、今日」
え、と美加子の声が漏れた。ようやく事態を察したのだろう。
別日ならばまだ良かった。
しかし不運にも天下と統は同じ日に面談となってしまった――いや、もしかしたら、美加子に自分の面談に来させないためにわざと同日にしたのかもしれない。いずれにせよ、肝心要の父親が面談に出られなくなってしまえば水の泡だ。
一方は母親が出席し、もう一方は父親が出席できないため延期となれば不審に思われるのは必至。天下に残されたのは『弟の面談に出席した母親が帰宅した後に、自分の面談に出席する予定だった父親に急遽仕事で面談に参加できなくなった』と言い訳することだけだ。
抜かりのない天下のことだから、統と美加子の面談時間も把握しているのだろう。二人が帰るのを確認してから担任に謝罪する姿が容易に想像できて、涼はますますいたたまれなくなった。
父親の代わりに詫び、母親のために取り繕う。そつなくこなせる天下が哀れだった。
「でも、私が行っても」
言いかけ、美加子は口を噤んだ。
「……許されるのでしょうか。文字通り三年も放っておいて、今さら母親面でしゃしゃり出て」
他ならぬ美加子自身が許されたいと望んでいるように見えた。だから大丈夫。後もうひと押しさえあれば。涼は自分が何をすべきなのかを理解していた。
「三年かけて他人の振りをしたのなら、三年かけて家族の振りをしたらいかがでしょうか」
言葉の意味を探るようにこちらを見る美加子。涼は肩を竦めた。
「全く覚えのない息子の存在を知った時、あなたはどう思いました? 戸惑いましたか。疑いましたか。気味が悪いと思いましたか。とっさに浮かんだ感情を責めることは誰にもできません。それが当然だと思います」
淡々と告げる口調に責める色はない。涼は言葉を探すように目を伏せて、やがて顔を上げて小さく微笑んだ。
「でも、ほんの少しでも嬉しいと思ったのなら、家族になるべきです。歩み寄る努力をするべきです。たとえ本物にはなれないとしても、家族同然にはなれるはずです」
少なくとも、と涼は付け足した。確信には程遠かった。そう言っている自分自身、彼女や恭一郎と家族同然になれたのかは定かではない。今でも断言ではきなかった。頼りない説得だった。その代わり、それ以上に、切実な願いを込めて涼は言った。
「私はそう信じています」
公園で人目をはばからずに抱擁した時から涼は天下に縋っていた。
今ならわかる。天下を突き放し解放する時がきてようやく涼は気がついた。中途半端な関係を誰よりも望んでいたのは自分で、だから天下の想いには応じなかったのだ。涼が彼に寄せるのは憐憫でも、ましては愛情でもなかった。同族意識だ。親に恵まれなかった者同士という連帯感を、涼が一方的に持っていた。天下が統と親しげに話す度に、家族との絆を取り戻しつつあるのを知る度に、裏切られた気分になるのはそのせいだ。
(同じになりたかった)
でも違う。天下が前に進もうとする限り、彼と自分はどんどん違えていく──いや、最初から全く違ったのだ。涼がそれに気づこうとしなかっただけで。
自分が世界で一番不幸な人間とまで悲観するつもりはないが、少なくとも鬼島天下と渡辺涼は同じにはなれない。
「統君、三年一組の教室は知ってますよね?」
質問の意図を正確に汲み取った統は、むっつり押し黙ったまま頷き、美加子の腕を引いた。引きずられる格好で美加子は先ほど降りてきたばかりの階段へ足を進める。
「あ、あの渡辺せん、」
「お気遣いなく。いってらっしゃいませ」
涼は軽い口調で手を振った。
(もっと早く、こうするべきだった)
縋ってきた天下の背中に腕を回すのではなく、突き放すべきだったのだ。彼のためにも、自分のためにも。躊躇いがちに、だが確実に遠ざかる美加子の背中に涼は語りかけた。その向こう側にいる天下へ。
涼は自分の中で何かが終わったのを感じた。
(ごめんな)