(その九)息子の心、親知らずなのです
涼が準備室を後にしたのはそれからしばらく経ってのことだった。今日やるべき仕事は終わった。だらだらと準備室で暇を持て余すくらいならば、さっさと帰った方がいい。こんな日は、特に。
特別棟から職員室のある一般棟へ渡る廊下。真ん中へ差し掛かったところで、涼は足を止めた。向かい側から男子生徒とその保護者と思しき女性がやってきたからだ。
互いに相手を認識するなり硬直。先に動き出したのは相手――鬼島美加子の方だった。
「渡辺先生、ですよね? いつぞやは大変お世話になりました」
折り目正しく一礼。どういうわけか統までもが揃って頭を下げた。
そういえば、直樹が統の次に面談だと言っていた。兄弟で同時に面談は普通の親にしてみれば手間が省けるので願ってもないことだが、鬼島家の場合は別だ。同日だろうが美加子が天下の面談に出ることはできない。
「いいえ。そんな、大してお力には……」
涼は言葉を濁した。力になったどころか、怒りに任せて天下の父を責め立てただけだ。今思い出せば恥ずかしい。
「そんなご謙遜を」
「いや、本当にお役には立てなかったかと」
弁明する涼を見て何を思ったのか、美加子は優雅に微笑んだ。
「失礼。一番上の息子の話を思い出して、つい」
「鬼島天下君の?」
天下を君付けで呼ぶことに違和感を覚えつつ訊ねれば、美加子は頷いた。
「先生はご存知かと思いますが、私のせいで息子は実家とは疎遠になってしまいまして。最近ようやく一緒に食事したりするようにはなったのですが……息子相手にお恥ずかしながら、何を話せばよいのか途方に暮れておりましたの」
だろうな、と涼は思った。血が繋がっているだけで三年の溝が埋まるのなら苦労はない。そもそも美加子の記憶は戻っていないのだ。突然現れた息子に戸惑う心情は察することができた。しかし、だ。
いくら親子間の話題がないとはいえ、他人を話のタネにするのは遠慮してほしかった。
「まさか息子がオペラの案内状に興味を示すとは思いませんでしたわ。ドミンゴがお好きなんですってね?」
美加子に悪びれる様子はなかった。皮肉っている様子もなかった。純粋に息子との他愛もない会話を喜んでいるようだ。
こんなものか。涼は正直、拍子抜けした。三年の確執はこんなにあっさりと消えてしまうものなのか。それとも家族の『絆』が成せる奇跡なのか。要因が他人である涼にわかるはずもないが、とりあえず解決の方向には進んでいるようだ。このぶんだと天下が卒業を迎える前に、一人暮らしをやめて実家に戻ることになるかもしれない。
(結構なことだ)
家族皆様で末永くお幸せに。母親に存在を忘れ去られるという不幸がなければ、天下が六つも年上の教師に惹かれることはなかっただろう。自分とて同じことだ。ごく一般的な家庭に育つ生徒だったならば、情を移すこともなかった。
不幸によって生まれる感情は、不幸と共に消えるべきだ。
「ご主人によろしくお伝えください」
「ありがとうございます。今は出張中ですが、戻りましたら伝えますね」
社交辞令の返事に涼は首を捻った。鬼島氏が不在。では今日、天下の三者面談に出席するのは誰だろうか。
既に一階にまで降りている美加子が再び階段を上って教室に行くとは考えにくい。それに実の母親とはいえ美加子には天下の母親として三年のブランクがある。記憶が戻っていないのだから、ゼロと言ってもいい。事情を知らない担任相手に進路の相談とはハードルが高過ぎやしないか。
「出張?」
「ええ、急に」
呑気に答える美加子に反して、涼は茫然とした。
たかが三者面談とはいえ、同じ日に母親が学校に来ているのに延期など担任教師に頼めるはずがない。どんな説明をすれば納得するのか――容易に答えは導き出された。天下と『同じ』である涼だからこそわかったことだ。その事実が余計に涼を打ちのめした。
他人に過ぎない自分がわかることを、どうして血の繋がった母親がわからないのか。
父親に、仕事よりも自分を優先してくれと、頼めない子供の気持ちを考えたことがあるのか。一人来るはずもない親を素知らぬ顔で待たなくてはならない天下の心情を一度でも考えたことがあるか。
筋違いであることを知りながらも、涼は憤りに近いものを覚えた。そして思い至る。恭一郎が言っていたのはこのことだったのだと。
故意ではないとはいえ、息子の存在を抹消して生きる母、それを黙認する父。そんな鬼島夫妻を内心で無責任だと責めることによって、涼は自分の両親をもなじり蔑んでいた。
(なあ天下、知ってたか)
そうとも知らずに自分を慕う高校生に、涼は内心語りかけた。面と向かってはきっと言えない。口に出すにはあまりにも卑屈で陳腐で最低な心情だった。
(私はお前の不幸を喜んでいた。母親の記憶なんか一生戻らなければいい。鬼島家で一人忘れ去られたままでいいと思い続けてたよ)
天下が、修学旅行で土産を買って帰る相手がいないと知った時、年末年始を過ごす人がいない時、どれほど嬉しかったか。その孤独と苦悩を涼はよく知っている──知っていたが故に、喜んだ。自分と同じだと思ったから。
今だってそうだ。何も知ろうとせずにのうのうと次男と二人で帰ろうとする美加子を蔑みながらも、涼は安堵していた。不条理を押し付けられているのは自分一人ではないと実感できるから。
しかし、同じくらい虚しかった。
 




