(その二)変わろうと努力することは大切です
授業はおおむね順調だった。
発声の練習もつつがなく終了。本日のメインであるオペラ鑑賞も涼の下準備が生きた。前回の失敗から学んで『カルメン』を導入。手作りの概要。そしてダイジェストよろしく説明を交えて主要シーンのみをピックアップして観せる。初心者向けの作戦が功を奏して、生徒の気を引いた。食い付きがまるで違う。ありがとう、ビゼー。ありがとう、カルメン。おめでとう、私。
次は『タンホイザー』でもやろうか、と内心上機嫌で教室全体に目をやって、後悔した。窓際の後ろから二番目に座る学生と目が合ったからだ。鍵盤に置いた手が一瞬硬直。すぐさま視線をそらして涼はピアノを鳴らした。
「来週は器楽をやります。教科書とリコーダーを忘れないように」
「忘れたらどうなりますかー?」
笑い混じりの質問。涼は律儀にも答えてやった。
「皆の前でぴーぴー歌ってもらいます」
授業時間もしっかり守って解散。満足の出来だ。涼は余った資料を揃えた。つまり、油断していた。
「先生」
耳に心地よい低音。顔を上げれば、授業中に一人涼を睨み続けていた男子生徒がいた。鬼島天下だ。一度意識してしまえば、どうして今まで気づかなかったのか、不思議にさえ思えてくる。天下の眼差しは始終涼に注がれていたのだ。鋭い双眸が、睨んでいるかのような錯覚を与えた。整い過ぎた顔というのも考えものである。
「何か用ですか、鬼島君」
「いや、別に、そうじゃなくて」
天下の歯切れが悪い。涼は平静を装ったつもりだったが、違和感を覚えてしまったようだ。戸惑っている。この隙を逃さず涼はたたみ掛けた。
「次の授業がありますから、質問ならまた今度にしてください」
天下はいつも通り仏頂面だ。が、まがりなりにも数日彼を観察してきた涼にはわかった。納得していないが、明確に何が変なのかも口にできない。そもそも、天下が自分の想いに気づいているのかすら怪しかった。
違和感なんて、極力目を合わせないようにしているのだから当然だ。天下の困惑を知りつつも、涼は話を振るような真似はしなかった。
天下が自覚していないのならそれでいい。自分の勘違いならなおいい。とにかく、これ以上変な方向に話が進む前に引き返せ。今ならまだ間に合う。健全な学校生活をエンジョイしてくれ。頼むから。
良心の痛みを堪えて、涼は天下を追い出した。思えば、ずいぶんと絆されてしまったものだ。自分の甘さを涼は自覚した。「他人にはとことん冷たいが、一度でも関わると情がわいて流される」と涼を評した友人の言葉を思い出す。
あれは確か、馬鹿正直にスポーツタオルを洗って返しに行った時だっただろうか。彼女はただでさえ大きな瞳を見開いて、次に腹を抱えて笑った。それはもう豪快に。しばらく経って落ち着いてから彼女は言った。
「あんたって、他人に流されないつもりで結局流されるタイプね」
その言葉に反論するすべを、いまだに涼は持たなかった。佐久間や遙香のことを軽蔑しつつも結局手を差し伸べてしまうのも、己の性分が全く改善されていない証拠だ。
(だが、それも昨日までのこと)
四限目終了後、涼は器楽室に立てこもった。廊下に面した扉の前にイスを置き、さらに紐で縛って固定する。中庭に面した窓も全て鍵を閉める。これで難攻不落の牙城が完成。涼は胸を撫で下ろした。
どんなに厳しく律しても、どれだけ他人を拒絶しても、流されてしまいそうになる。そんな自分が恐ろしかった。母親と同じ間違いを犯しそうで、怖かった。
「自分の世界に閉じこもるな」と友人は言った。しかし無理な相談だ。自分で責任が取れる範囲でしか涼は動けない。
二十三年経っても、涼は自分の居場所から一歩も出られずにいた。